産経新聞が連載「日台をつなぐ絆 昭和天皇訪問100年」の2回目を掲載

 李登輝元総統ご生誕100年の記念すべき年に当たる本年は、後に昭和天皇となる皇太子の裕仁親王殿下が摂政宮として台湾へ行啓(ぎょうけい)されてからも100年に当たります。

 昨日の本誌で伝えたように、産経新聞は昨日から1面に「日台をつなぐ絆 昭和天皇訪問100年」という意欲的な短期連載記事を掲載し、本日(4月15日)、その第2回を掲載しています。今回は、訪問が15校にも及んだという学校への行啓を中心に、台湾の日本語世代が誇る言葉と文化に大きな影響を与え、現在の観光交流にもつながっているのではないかという視点から行啓の様子を伝えています。

 ちなみに、天皇の御位を嗣ぐ皇太子だった後の昭和天皇がこの時期に「摂政宮」と称されたのは、父君の大正天皇がご不例だったため、天皇に代わって政務を摂られることになったからでした。摂政には1921年(大正10年)11月25日、台湾行啓の2年前に就かれています。

 台湾行啓は、1923年4月12日にお召艦「金剛」にて横須賀港を出港し、16日に基隆港に到着されてからご帰国のため再び基隆港を出港される27日までの12日間。この間、台北、新竹、台中、台南、高雄、屏東、そして澎湖本島の馬公へ船で渡るなどほぼ全島を巡りました。帰路の4月29日には、船上で御年22歳の誕生日を迎えられています。

 昨日は連載が2回になるのか3回になるのか不明だったのですが、本日が「中」でしたので3回連載で、明日4月16日が台湾行啓の初日に当たりますので、最終回の「下」を掲載するようです。

 なお、産経記事に「昭和天皇が最後に訪ねたのが、台北市の台北第三高等女学校(三高女)。・・・三高女は後に中山女子高級中と名前を変え、台湾の現総統、蔡英文の出身校としても知られる」と出てきます。李登輝元総統令夫人の曾文恵さんも第三高女の卒業生です。

 曾文恵夫人は1926年3月31日生まれで、現在、97歳になります。生前の李登輝元総統は夫人のことを日本語で「ふみ」と呼ばれ、2人で話すときは日本語だったそうです。私どもと一緒にテーブルを囲んだときも終始、きれいな日本語で話され、李元総統がもう少しお酒を飲もうとしたとき、「あなた、もうダメよ」と日本語で制した微笑ましい光景をよく覚えています。

 また、これも昨日の本誌で伝えたように、3月20日、台湾の国家撮影文化センターが台湾行啓時の写真をウェブサイトで公開しました。行啓の様子がよく分かります。こちらもぜひご覧ください。

◆國家攝影文化中心台北館【2023年3月20日】 百年前的政治大秀 1923年日本攝政宮裕仁皇太子「臺灣行啓」寫真帖影像線上開展 https://ncpi.ntmofa.gov.tw/information_171_152194.html

◆國家攝影文化中心台北館: 二十世紀臺灣第一場政治秀:1923年日本攝政宮裕仁皇太子「臺灣行啓」影像展 https://ncpiexhibition.ntmofa.gov.tw/tw/OnlineExhibition/Detail/22062210334078051

—————————————————————————————–日台をつなぐ絆 昭和天皇訪問100年(中) 言葉と文化 今も懸け橋【産経新聞:2023年4月15日】https://www.sankei.com/article/20230415-EL5AIGPR6BMNPMSB3JI4VRQ3EU/

《天津光(あまつひかり)の かがよひし 行啓所(いでましところ) 幸処(さちどころ)》

 台湾で生まれ育ち、先の大戦後に日本に引き揚げた東京都世田谷区の新元(にいもと)久(91)は母校の校歌を鮮明に記憶し、今も朗々と歌い上げることができる。

 在籍していた旧「台北師範学校付属小」(台北市、現・台北市立大付設実験国民小)は1923年4月18日、皇太子だった昭和天皇が授業を視察した学校の一つ。訪問後、皇太子らが外出することを表す「行啓(ぎょうけい)」という言葉を取り入れた日本語の校歌が、新たに作られた。「天の光が輝く、皇太子が訪問した幸せな場所」との意味だ。

「各教室に入らせらるるや、必(かな)らず御脱帽あり、慇懃(いんぎん)に御会釈あらせられ、児童の応答するに際して、一々御頷(うなず)かせられ、御目を児童に対する指示教材に注がせらる」

 「台湾行啓記録」(宮内庁宮内公文書館所蔵)には、同小で授業を視察した昭和天皇の様子がそう描写されている。「大変な栄誉だったからこそ、校歌が変わったんでしょう。先生も生徒も、誇りを持っていました」(新元)

 1895年に台湾を統治下に置いた日本は以降、近代教育を普及させようと、各地に学校を建設。昭和天皇が12日間の台湾滞在中、特に熱心に視察したのも学校だった。その数は各都市で計15校に及んだ。

 昭和天皇が最後に訪ねたのが、台北市の台北第三高等女学校(三高女)。当時、台北には高等女学校が3校あり、第一、第二は主に日本人、第三は主に台湾人が通った。三高女は後に中山女子高級中と名前を変え、台湾の現総統、蔡英文(さい・えいぶん)の出身校としても知られる。

 「内地(本土)の人に負けないくらい日本文化に通じているという誇りがありました」。三高女に在学した黄彬彬(こう・ひんひん)(90)は新元と同じ「誇り」という言葉を使い、流暢(りゅうちょう)な日本語でそう振り返る。

 当初は校舎も校庭も狭く、日本人が通う学校とは格差もあった。一方、日本人教師らは熱意を持って、生徒らと向き合った。

 当時の校長は募金を集めて校舎を新設。生徒と雑草や石を取り除き、校庭を整備した。宮中で年始に行われる「歌会始」のお題を基にした舞踊や、和歌の指導にも力を入れ、明治神宮で行われる和歌の会で入選した生徒もいた。

 「先生が生徒と一緒になって一生懸命、取り組んでくださったので、師弟の絆はとても強い」。黄はそう強調する。戦後、引き揚げた教師の尽力で卒業生が同窓会を結成。今も定期的に集まり、日本語で思い出話に花を咲かせるという。

 黄のように、台湾で日本の教育を受けた人は「日本語世代」と呼ばれる。一方、戦後に台湾を統治した国民党政府は「国語」を中国語に切り替えた。台湾での日本語教育に詳しい中国学園大准教授、岡本輝彦(60)は「国民党は当初、日本語に極めて冷淡な姿勢をとった」と話す。日本語はメディアから排除され、学校教育での使用も禁じた。

 日本語を学べる環境が再び大きく拡大したのは1988年以降。日本語世代の李登輝(り・とうき)が総統に就任し、90年代に民主化が進んでからだ。

 国際交流基金の「海外日本語教育機関調査」によると、79年度に11だった台湾での日本語教育機関は、93年度に127、2021年度は907にまで増加。台湾人が学ぶ外国語は、英語に次いで2位が日本語だ。テレビドラマや音楽、マンガやアニメを契機に日本語に触れる若者のほか、仕事に生かすため日本語学習を始める人も増えているという。

 台湾で再興されつつある日本語。岡本は「観光交流も盛んで、人気は定着しつつある。それも『日本語世代』という基盤があったからかもしれない」と推し量る。日本語世代が誇る言葉と文化は、形こそ変えながら、今も双方の懸け橋の一つとなっている。 (敬称略)

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