摂政宮の台湾行啓から100年、日本時代の遺産を残そうとする台湾

 李登輝元総統は1923年(大正12年)1月15日のお生まれで、本年はご生誕100年の記念すべき年に当たります。同時に、後に昭和天皇となる皇太子の裕仁親王殿下が摂政宮として台湾へ行啓(ぎょうけい)されてからも100年になります。

 台湾行啓は、1923年4月12日にお召艦「金剛」にて横須賀港を出港し、16日に基隆港に到着されてからご帰国のため再び基隆港を出港される27日までの12日間です。この間に台北、新竹、台中、台南、高雄、屏東、そして澎湖本島の馬公へ船で渡り、基隆港から台北に戻るという、あまり治安のよくなかった東側を除いてほぼ全島を巡り、さらには戦艦「松島」が沈む澎湖島へも渡られるという行程でした。帰路の4月29日には、船上で御年22歳の誕生日を迎えられています。

 日本ではほとんど紹介されないこの台湾行啓について、古くは名越二荒之助・草開省三編著『台湾と日本・交流秘話』(展転社、1996年)で紹介され、最近では片倉佳史氏が『古写真が語る台湾』(祥伝社、2015年)や『台湾のトリセツ』(昭文社、2022年)で紹介しています。

 この台湾行啓も日本史、それも台湾とのかかわりでは重要な歴史なのですから日本でももっと紹介されてしかるべきかと思いますが、台湾では今でもこの台湾行啓について、お召列車のことやお手植えされたガジュマルもよく知られており、立ち寄られなかった皇太子賓館という名のついた建物がきれいに保存されているなど、日本とはかなり趣が違うようです。

 3月20日、台湾の国家撮影文化センターが台湾行啓時の写真をウェブサイトで公開しました。

◆國家攝影文化中心台北館【2023年3月20日】 百年前的政治大秀 1923年日本攝政宮裕仁皇太子「臺灣行啓」寫真帖影像線上開展 https://ncpi.ntmofa.gov.tw/information_171_152194.html

◆國家攝影文化中心台北館: 二十世紀臺灣第一場政治秀:1923年日本攝政宮裕仁皇太子「臺灣行啓」影像展 https://ncpiexhibition.ntmofa.gov.tw/tw/OnlineExhibition/Detail/22062210334078051

 また、行啓の折に立ち寄られた陽明山の「草山御賓館」も、3年後の一般公開に向けて3月9日に修復事業がはじまったそうです。

 今朝(4月14日)の産経新聞は1面に「日台をつなぐ絆 昭和天皇訪問100年(上)」を掲載し、草山御賓館修復の起工式に蒋萬安・台北市長も出席したと伝え、4月16日に台湾行啓から100年を迎えるということで、台湾は「なぜ多額の費用をかけ、情熱を傾けて、日本時代の遺産を保護するのか」を明らかにしようとする意欲的な記事を掲載しました。

 2回の連載になるのか3回になるのか不明ですが、下記に本日掲載の記事をご紹介します。

—————————————————————————————–日台をつなぐ絆 昭和天皇訪問100年(上) 統治時代の記憶 現代に【産経新聞:2023年4月14日】https://www.sankei.com/article/20230414-IZ2PEHBM6JOMNIF4F5XIUP2AFY/

「これは歴史の証しであり、時の痕跡が刻まれた場所なのです」

 硫黄臭が漂う温泉地として知られ、かつて「台湾の箱根」とも呼ばれた台北市北部の陽明山(旧名・草山(そうざん))地区。その一角の森の中に立つ朽ちかけた建物の前で、台北市長の蒋万安(しょう・ばんあん)(44)が、熱のこもった口調で訴えた。今年3月9日、関係者が集まり、この建物を修復するための起工式が行われた。

 建物の名は「草山御賓館」。大正時代、昭和天皇が現地訪問の際に立ち寄った歴史を持つ。地震などで劣化が進んだ建物は、工事に向け外壁が外され、内装などが露出していた。

 3年後の一般公開を目指し、台北市と台湾政府が修復に投じる資金は約1億3600万台湾元(約6億円)。「長い間封鎖されていた史跡を再び皆さんの前に」「完成の歴史的瞬間に立ち会うため、またここで会いましょう」。蒋が関係者を前に呼びかけると、大きな拍手が起きた。

 皇太子だった昭和天皇は1923年4月16〜27日、台湾各地を巡った。日清戦争勝利後、日本による統治が始まり28年後のこと。到着時の現地の熱気を、地元紙は「島民の赤誠(せきせい)(真心)天に溢(あふ)れ歓呼(かんこ)地に湧く」との見出しで報じた。

 訪問を実現させたのは、日本政府や宮内省(当時)への働きかけを続けた台湾総督、田(でん)健治郎だった。京都大名誉教授(日本政治外交史)の伊藤之雄(ゆきお)(70)は「田には台湾の統治実績のアピールとともに、現地の日本人、台湾人に皇室を見せ、統治を円滑にする思惑があった」と指摘。加えて「将来の天皇として見聞を広めてほしい宮内省の意向とも合致していた」とみる。

 こうして決まった12日間の滞在中、昭和天皇が台北北部の景勝地を巡った際の立ち寄り先の一つが、冒頭の草山御賓館だった。

 起工式にはこれまで数々の文化財保護を手掛け、草山御賓館の修復にも携わる専門家、李乾朗(73)の姿もあった。「昭和天皇のエピソードがあるので、庭にあった池もぜひ再現したい」。李は起工式を終えた後、こう力を込めた。

 昭和天皇は背広に麦わら帽の軽装で御賓館を訪れ、昼食後に庭を散策。植物学者でもあった昭和天皇は、葉が星形の「八角蓮」に目を留め、随員らに名前を質問したという逸話が残る。

 台湾が日本の統治下を離れ約80年。この間、天皇や皇族の台湾訪問はない。なぜ多額の費用をかけ、情熱を傾けて、日本時代の遺産を保護するのか。

 李は言う。

「日本が基礎建設を進めたことが、後の台湾の発展につながった。日本統治時代の記憶は、私たちにとっても重要なもの。日本が残した建物は、私たちの文化の一部になっているのです」

◆お手植えの木 地域のシンボル

 台北にある台湾政府の中枢・総統府から東に約300メートル。政府が外国要人などを招く迎賓館「台北賓館」は戦前、台湾総督官邸として使われた。東京駅舎に似た色鮮やかな総統府とは対照的に、グレーが基調の落ち着いた色合いだ。洋風の豪華な外観は、100年前と同じ威容を誇る。

 昭和天皇が台湾に到着した1923年4月16日。当時の総督官邸前は「ちょうちん行列」で歓迎する住民らであふれた。当日は約2万5千人の住民らがちょうちんを持ち、夜の官邸前を行進。総督官邸3階のベランダに立つ昭和天皇の姿を見つけると、当局の合図を待たず、自然発生的に万歳が始まった。昭和天皇もちょうちんを振って応じたが、強く振りすぎて柄が折れてしまう一幕もあったという。

「其(そ)の壮観宛(あたか)も火の海を見るが如(ごと)く」

 側近がまとめた「大正十二年皇太子殿下台湾行啓(ぎょうけい)記」(宮内庁宮内公文書館所蔵)では、当日の様子をこう描写している。

 昭和天皇は台湾に到着後、鉄道で台北から新竹、台中、台南、高雄へ南下し、官庁や軍施設、学校などを視察。各地で熱烈な歓迎を受けた。同年4月23〜24日に海路で台北に戻り、陸上競技大会を観戦するなどし、27日に台湾を離れた。

 訪問の足跡を伝える建物は、台北賓館や草山御賓館が文化財として保護された一方、老朽化などで姿を消したものも多い。特に、昭和天皇が訪問の記念に各地で植えた樹木は戦後、多くが消息不明となった。

 その中で、台南にある国立の名門・成功大のキャンパスの広場には、昭和天皇お手植えのガジュマルが手厚く守られている。

 「この木は、学生や住民のシンボルなんです」。同大博物館で副研究員として建築史などを研究する蔡侑樺(43)はこう話す。大学の学生証には昭和天皇のガジュマルがあしらわれ、学生はガジュマルをバックに卒業写真を撮影するのが長年の定番という。

 昭和天皇は21日、台湾歩兵第2連隊の施設だったこの地を訪れ、馬上で閲兵に臨み、営舎前にガジュマルを植樹した。

 広場周辺の土地の所有者は戦後、軍を経て1966年に大学へと移った。後の研究者の調査で、2000年前後に改めて「お手植えのガジュマル」と確認された。

 15年には広場が台風の被害を受けたことから、大学は樹木保護担当を新設。卒業生からの寄付金も保護の費用に充てられている。「歴史を知ったからこそ、『大事に守ろう』という機運がさらに高まっている」。蔡はこう説明する。

 「日本天皇裕仁の皇太子たりし頃に、自ら植えられしものと伝えらる」。ガジュマルの脇には、中国語、英語、日本語で刻まれた碑が設置されている。南国特有の強い日差しの下、大きく腕を広げるように枝を伸ばすガジュマルの懐には、木陰で涼む高齢者や、動画撮影に勤(いそ)しむ若者の姿があった。(敬称略)

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 昭和天皇の訪台から16日で100年となる。台湾では近年、日本時代の遺産を残し、歴史を知ろうとする動きが活発だ。台湾に残された「日本」と、現代の台湾の人々との絆を探った。

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