産経新聞連載の「日台をつなぐ絆 昭和天皇訪問100年」が最終回

 産経新聞が4月14日から掲載した「日台をつなぐ絆 昭和天皇訪問100年」は上・中・下の3回連載で、本日(4月18日)、最終回が掲載されました。

 4月16日が台湾行啓の初日に当たりましたので、最終回の「下」を掲載する予定だったようです。しかし、予想だにしなかった岸田文雄首相への卑劣な襲撃事件が15日に起こり、16日の紙面はそれで埋め尽くされ、翌17日は休刊日。それで本日掲載となったようです。

 本年は、後に昭和天皇となる皇太子の裕仁親王殿下が摂政宮として台湾へ行啓(ぎょうけい)されてから100年に当たります。

 台湾行啓は、1923年4月12日にお召艦「金剛」にて横須賀港を出港し、16日に基隆港に到着されてからご帰国のため再び基隆港を出港される27日までの12日間。この間、台北、新竹、台中、台南、高雄、屏東、そして澎湖本島の馬公へ船で渡るなどほぼ全島を巡りました。帰路の4月29日には、船上で御年22歳の誕生日を迎えられています。

 産経の連載最終回は、先帝陛下が皇后陛下を伴って与那国島に初行幸された2018年3月、その行幸を与那国島の110kmの対岸にある台湾・宜蘭県南方澳から奉迎した李英茂氏を紹介しています。

 李英茂氏は元宜蘭県史館「日文宜蘭文献翻訳計画」責任者で、2019年春に旭日双光章を受章されています。台湾歌壇の同人でもあり、友愛会のメンバーです。本会の李登輝学校研修団でもお世話になったことがあります。

 2018年3月の奉迎のときは、2015年秋に李英茂氏と同じ旭日双光章を受章した、友愛会代表の張文芳氏や日本の友人4人とともに正装して南方澳へ向かい、両陛下の与那国島ご到着の時間に合わせた午後3時20分、校長のご好意で山の上にある小学校の展望台へ上がり、4人で君が代を奉唱し、万歳を三唱したそうです。後に、台湾歌壇で次の歌を詠まれています。

  海はるか与那国島の一点のかしこきあたりわれ遥拝す

 また、連載にはもう一人、日本統治時代の建築や歴史を研究し、台湾行啓の訪問地をたどるツアーガイドも務める嘉南薬理大助教の陳信安氏も登場しています。

 李英茂氏は93歳、陳信安氏は55歳。40年を隔て、台湾史に脈々と生きる「台湾行啓」の歴史をいまに伝えながら日本との絆を紡いでいます。

—————————————————————————————–日台をつなぐ絆 昭和天皇訪問100年(下) 埋もれた歴史 次代につなぐ【産経新聞:2023年4月18日】https://www.sankei.com/article/20230418-FMVIC5JMTBMADNHUDWLKOZYADI/

「西はどこ?」

 2018(平成30)年3月28日、日本最西端の沖縄・与那国(よなぐに)島の「西崎(いりざき)」を上皇后さまとともに訪れた在位中の上皇さまは、案内役を務めた当時の与那国町長、外間守吉(ほかま・しゅきち)に尋ねられた。外間は西を指し示し、「お隣が台湾です」と説明した。靄がかかり、台湾を望むことはできなかったが、上皇ご夫妻は静かに海を見つめられた。

 ほぼ同時刻。約110キロ先の対岸に当たる台湾・宜蘭(ぎらん)県の漁港「南方澳(なんぽうおう)」から、東の海に向けて遙拝(ようはい)し、万歳三唱する男性らの姿があった。参加者の一人で、日本統治下の台湾で生まれた李英茂(り・えいも)(93)は「胸にこみ上げるものがありました」と振り返る。李の目にも与那国島ははっきり見えなかったが「私の青春は戦争と動乱のさなかでした。台湾はその後も苦難の中にあります」と、心の中で上皇ご夫妻に伝えた。

 この日の日記には、《両陛下(上皇ご夫妻)は海の向(むこ)うを見つめ、連合国による激しい空襲もあった台湾への思ひもお持ちではないだろうか》とつづった。

 李は16歳まで、道徳や教育の基本理念を示した「教育勅語(ちょくご)」に基づき「忠君」「孝行」などの教育を受けた。「励んで、学んで、立派な人になろうと思っていた」。実際に李の周辺では当時、多くの教員や医師が養成された。米国に留学し、博士号を取った者もいたという。終戦間際には軍事訓練や学徒出陣も経験した。

 しかし戦後、国民党政府は日本統治下の文化、教育を否定した。「反政府的とみなされるので、日本を懐かしむこともできなくなった。日本には取り残され、同胞からはいじめられ、複雑な心境だった」。李は長年、教師を務めたが、学校では日本統治時代のことを教えることはできなかった。

 上皇ご夫妻の与那国島ご訪問を台湾で出迎えたのは、「子供のころ学んだ皇室への敬意を持ち続けてきた」ためだ。だが、日本統治時代を知る世代は減った。「同じ思いの台湾人はどれくらいいるんだろう」。李は感覚を共有できる人が少なくなっていることを気にかける。

 李は教師を退職後、地元の資料館で日本統治時代に残された日本語資料の中国語訳などに従事。研究者らに自身の体験を証言してきた。「歴史が埋もれてしまう」との苦渋の思いがある。

 「何が本当の歴史なのか、興味があった」。日本統治時代の建築や歴史を研究する嘉南薬理大(台南)助教の陳信安(55)はこう話す。

 戦後生まれの陳の周囲では、100年前の昭和天皇訪台という史実が「『ここに寄った』とか『私の家で食事した』とか、真偽不明の伝説のようになってしまっていた」と明かす。

 そこで陳は08〜09年、自身の研究チームで台湾全土の現地調査を実施。訪問にまつわる伝承と記録を検証した。「誤った逸話の中には古い建物を守るための創作話や、単に名誉だと思った人の話が基になったものもあった」という。

 陳は日本統治時代の建物の復元にも参加。昭和天皇が台南訪問時に宿泊した「旧台南州知事官邸」(現・知事官邸生活館)もその一つで、失われていた階段の飾りや照明のデザインまで再現した。「修復は必ず資料に基づいて行う必要がある」と強調する。

 昭和天皇の訪問地をたどるツアーガイドも務め、参加者に地域の歴史や訪問時のエピソードも紹介する。ツアーの参加者の世代は幅広く、ほとんどが台湾人という。陳が関わるもの以外にも、観光業者が企画するツアーが登場。昭和天皇が台湾滞在中に口にした台湾料理を再現する取り組みも見られるようになった。

「3年前に亡くなった私の父は日本統治時代の生まれで、私の研究を助けてくれた。生きていればもっと話を聞けたかもしれない」と悔やむ陳は、自身の活動についてこう話す。「歴史は真実の部分だけを知ってほしいし、伝えていきたい」(敬称略)

(この企画は橋本昌宗が担当しました)

──────────────────────────────────────※この記事はメルマガ「日台共栄」のバックナンバーです。