【遥かなり台湾】「お茶と阿片(アヘン)」

【遥かなり台湾】「お茶と阿片(アヘン)」
                
メルマガ「遥かなり台湾」より

日本と台湾の架け橋になる会 世話人 喜早天海

 今年3月初めに、故林啓三前会長の作品集「ガジュマル」を発刊しましたが、紙面の関係で
『ガジュマル』に載せることのできなかった文章の中からいくつか選んでメルマガにて今後逐次
公開して行きたいと思います。
本日は学校の歴史教育であまり詳しく教えてもらえなかったような気がする「お茶と阿片」に
関する話です。

●お茶と阿片(アヘン)
                     2014年11月10日 林啓三

16世紀ごろお茶が奢侈品から生活の必需品になるとともに「文化」から資本主義的「商品」に
変わっていった。
17、18世紀における中国とヨーロッパの貿易は基本的には奢侈品の交換であった。絹、茶、陶器
などヨーロッパでは奢侈品(文化物)とみなされていた中国物産が金、銀、時計と交換に東洋から
西洋に送られた。
 それでも18世紀末までは奢侈品交易の貿易量は比較的少数で貿易拡大のテンポも緩やかであった。
 海路はマカオと広東に於いてだけ貿易を許すと言う中国(清朝)政府の管理貿易が東西貿易の
支障となっていた。
つまり、基本的には貿易を必要としない中国の消極的態度が貿易の発展を妨げていたのである。
1793年イギリス国王ジョージ三世がマカートニーを北京に派遣して、貿易港を増やし、行商(ボン、
マーチャント)の貿易独占を排することなどを求めたのに対し、乾隆帝のイギリス国王への返書には
「中国は産物が豊富で、国内にないものがない。ただ中国に産するお茶、陶磁器、絹などは西洋各国
の必需品であるから広東に於いて貿易を許し必需品を与えて、天朝の余沢にうるおわしめているだけ
である」として取りつくしまのない有様であった。
ところが、この中国の頑なな「天朝の恩恵」も19世紀の初めから全面的な変化を余儀なくされる。
その厚い壁をついに打ち砕いたものは何かと言えば、それはアヘン(阿片)である。
阿片はケシ科の一年草で葉は白っぽく、5月ころに紅、紫、白色など四弁の大きな花を開くが散り
やすい。種子は非常に小さく、未熟の罌の実にある乳液を取り干して作った茶色の粉はモルヒネ
(麻薬)の成分を含んでいる。
これを常飲すれば中毒症状によって精神も肉体と共に蝕まれ廃人状態になってしまう。この悪影
響があるのになぜ飲むのか?その原因はタバコのように吸飲すると、恍惚感を覚え意識が朦朧と
して最高の気分になると聞いている。
アヘンをジュースにして飲む方法は古くから中国で行なわれ痛みを取る薬用にも使われていた。
その後イギリスは東洋からの輸入品の主力を中国茶に注いだ。そして国内における茶の大衆市場
の拡大は東インド会社の中国貿易への依存度を一層高めることとり、その結果18世紀末における
茶貿易の増大は銀の流出が問題になった。
銀の流出問題とは、イギリスが中国から輸入する茶に対して「見返り品」として適当なものがなく、
全体がかなりの片貿易になっていた。
それ故、銀の流出を避け銀に代わるものを見出すのが緊急の課題となった。そこで採用された政策
がインド植民地の産物、原綿と、特にアヘンを中国に輸出し、銀を回収するという方法である。
ところが、イギリスの東インド会社が18世紀末からインドで大量にアヘンを生産し、これを中国に
輸出するようになって、今まで華南に限られていたアヘンの流行は、たちまち華中から華北にまで
拡大した。
そして、中国はアヘンの輸入によって、逆に1820年代中ごろ以降、銀が大量に流出し始めたのである。
従来、中国は「天朝の恩恵」として西洋人に与えてきた産物お茶と引き換えに大量のアヘンが流入し
始め、アヘン中毒患者の蔓延、銀保有量の減少に伴う銀価の騰貴など中国社会を大きく揺さぶった。
清朝は当然アヘン貿易に反対した。
清朝はしばしば勅令によってアヘンの吸飲を取り締まり、18世紀末にはアヘンの販売を取り締まって
はいたが、官吏の腐敗も預かって効果を上げることができなかった。
1820年代には広東におけるアヘン取引を禁圧のキャンペーンにもかかわらず成功せず、30年代には
取り締まりを強化すれば密輸が横行するというわけで、アヘン貿易はますますブームを迎えた。
1837年政府はアヘン取り締まりの強権を発動して多くの中国人を逮捕する一方、アヘンを没収する
ことによって一応の成果をあげた。
しかし、これに対するイギリスの報復がアヘン戦争(1839〜42)に勃発して事態が展開していった。
イギリスの近代的兵器、艦隊の前に屈した清朝は屈辱的な南京条約(1842)を押しつけられた。
その結果香港をイギリスに租借し、軍費、アヘンの賠償金など2100万ドルの支払いと広東のほか、
厦門、福州、寧波、上海の五港を開き、そこにおけるイギリス商人の居住を商業の自由を認める
ことになった。この南京条約の締結は、中国の歴史に画期的な事件であるとともに、茶の世界史
における画期的な転換点となったのである。

次に日本統治時代台湾総督府が阿片についてどう政策を取ったかを述べてみよう。
台湾総督府は明治29年(1896年)2月24日に阿片の暫禁令を公布した。ところが当局の禁止令が
無視され阿片の流入や自家栽培が行われ闇取り引きされるまでに至った。
そこで明治30年(1897)1月21日に台湾阿片令を公布し阿片吸食者の減少と新吸食者の拡大防止の
ため実態調査を実施した。そして阿片常習者の吸食名簿が作成され名簿に登録されることを希望
する者に対しては阿片吸食の特別許可の鑑札を付与する(台湾の民間が阿片煙牌と言った)制度
が採用された。
台湾総督府が実施した阿片政策は第四代総督児玉源太郎時代の民政長官後藤新平が発案したもの
である。これは台湾の阿片問題を逆手にとった立派な事業であった。
専売制による阿片の供給は大きな利益をもたらし、総督府の財源の増加となった。つまり阿片吸
食者の急激なる減少を得たばかりか収益は衛生医療の公共福祉に再投資される一石三鳥の効果を
もたらした。
昭和19年(1944)9月総督府は阿片癖者の著しい減少を確認すると阿片煙膏製造の禁止処置を発令
して残存する阿片吸食特許鑑札者の全員を矯正施設である台北の「更生院」に収容し医学的な治療
を実施することに切り替えた。
その後における台湾阿片問題の終息は戦後に入り、杜聡明博士(台湾人最初の博士)により果た
されたのである。

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