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【臺灣通信】「天亮前後(夜明け前後)」

【臺灣通信】「天亮前後(夜明け前後)」

傳田晴久

1. はじめに

台湾通信No.67「台湾今昔物語(錦連著)」で人間らしい憲兵と乱暴な憲兵の話を紹介しましたが、 今度は悪名高き日本陸軍内務班の体験談をお書きになった許育誠さんの「天亮前後(夜明け前後)」に出会いましたので、ご紹介したいと思います。日本人として日本人の悪しき言行をお聞きし、書き連ねるのはつらいものがありますが、許育誠さんも仰るように「真実を記録に残す」ことは大切と思いますので、台湾通信No.69にさせていただきます。

2. 許育誠さんと「天亮前後」

許育誠さんは大正14年11月1日生まれというから今年87歳になられる。錦連さんから私の拙文「台湾通信」をこの方たちにも送ってくださいと言われて数人の台湾の方々を紹介いただきましたが、その中のおひとりです。ある時、私とお話ししたいと仰るので、台中市のお宅を訪問すると、「天亮前後」という短編をくださいました。それは氏が戦後、習い立て間もない中文で書き上げ、1953年(昭和28年)4月に梵石の筆名で「台糖通訊」文芸欄に投稿した物であるが、その後60余年のちに読み返したが、文辞の硬さ、段落の冗長が気になり、ご子息の協力を得て大幅に添削、推敲された。そして「あえて日訳を試みたのは、齢八十七に未だ書く根気が残されているかを確かめたかったから」として日訳の原稿もくださいました。

「天亮前後」は、許育誠さんは「夜明け前後」と翻訳されていますが、もちろん島崎藤村の「夜明け前」を意識したものとのことです。

3. 「天亮前後」のあらすじ

1945年(昭和20年)、台湾でも徴兵制が敷かれ、台湾青年が徴兵されたが、初年兵は毎日厳しい軍事訓練のほかに、土嚢積みや壕掘りなどのいわゆる土方作業をさせられる一方、坂本班長をはじめとする古参兵から毎日のような虐めを受けていた。故郷に残こしてきた年老いた両親や弟妹を思い、同期入隊の呉松林と陳水発は脱走を計画し、真夏のある晩実行する。

恋仲の玉欄やその叔父の萬福叔等の支援を受けて二人は脱走に成功し、萬福叔が営むアヒルの養殖場に潜む。中隊長の命令で坂本班長は許龍深一等兵と共に脱走した二人を追い掛けるが、見つけられなかった。軍警は陳水発の郷、恒春に当然ながら手配しており、立ち寄るのを待ち構えている。
逃亡中陳水発はマラリアにかかり高熱を出して苦しむが、特効薬キニーネは軍がすべておさえていて民間ではなかなか手に入らない。玉欄が奔走し、製糖工場の日本人技師から一錠貰い受けることが出来、陳水発は回復した。

8月に入り、沖縄は米軍の手に落ち、台湾も連日米軍の攻撃を受けるようになる。玉欄から恒春の老父が危篤であることを知らされた陳水発は呉松林に告げることも無く恒春に駆けつける。恒春の家にたどり着き、そっと家を覗くと、見知らぬ男が二人いるので、両親に会うことも出来ずにいる。

8月13日、米空軍が恒春一帯を猛爆撃、甘藷畑に逃げ込んだ陳水発は腹部に機関砲弾を被弾する。恒春の部隊は軍人優先で負傷者を野戦病院に搬送するが、脱走兵である陳水発は助けを求めることが出来ず、畑の中で絶命する。その2日後に玉音放送。

9月にはいり、日本兵は内地に引き上げるが、坂本班長も麻豆にある製糖会社で待機している。許元一等兵は公学校の同窓生数人とともに呉松林を誘い出し、「江戸の仇を長崎で討つ」と言って麻豆に出かける。製糖工場の事務所から坂本を呼び出し、「けりを付けに来た」と言って、坂本を皆で取り囲み、それぞれ一発見舞って溜飲を下げた。

その後10月31日中華民国蒋介石委員長が陳儀を公署行政長官に任命し、二百万の国軍を擁して台湾の接収に来た。島民は熱烈に歓声を上げて迎えたが、敗残兵もどき兵士の服装に度肝をぬかれ、所構わず痰を吐き散らし手鼻をかむふしだらに幻滅を感じた。ああ、旧日本兵に比べて何たる遜色。「なぜ正規軍を派遣しなかった」と忌々しかった。

陳儀は職権を利用して私腹を肥やし、高官も見習って島民から金品を巻き上げる。物価は高騰し、昨日の四万元が一元に切り下げられ、島民は生活苦におびえ、自殺者も出た。国共内戦に大敗した蒋介石総司令官は総統の職に就き、帝王如き贅沢三昧。彼は国父孫中山に心酔し、忠実な三民主義の信奉者と自豪しているが、憲法を制定しながら憲政を行わず、軍政で島民を統治し、たまりかねた島民はついに二二八事件を起こした。
嗚呼、夜が明けたばかりなのに、台湾の大空に暗雲が立ち込めている。

4. 「真実を記録に残したい」

「夜明け前」はもちろん終戦直前の台湾のことであり、「夜明け後」は国民党政府軍による光復(祖国復帰)であって、許育誠さんにとっての日本敗戦は「夜明け」であったはずであるが、実際に夜が明けてみると暗雲立ち込めていたのであった。

私は、二二八事件や史上最長の戒厳令、白色テロなどに代表される台湾の戦後史についてはある程度勉強してきたはずであるが、戦前の状態については、台湾に対して「いい事もした」日本については多少調べたが、日本の「悪い面」についてはあまり調べようともしなかった。特に軍隊の内部での生活については全くと言っていいほど知らなかった。「天亮前後」の中に記されている内務班の実態を表す記述を列挙してみる。

「こんな軍営は人のいる場所ではない。一分一秒でも早く抜け出すべきだ」

「夕食後から夜の点呼までの時間帯が初年兵の自由で気楽な時間だ」

「(我々は)不幸にして坂本兵長の教育班に属し、彼に目の仇にされ、何かにつけてどやされるのに閉口した」

「軍隊における装備品の管理は厳しく、湯読み茶碗一つ遺失しても古兵連中に「たるんでる」となじられ、いびられるのだ」

「毎日のように古兵にどやされ、いびられる。彼らは軍威を借りて私的制裁を加えて息抜きしている向きがある」
「いざ戦になれば頼りになるのは兵卒、古兵連中は腰ぬけて、おっかなびっくりで後陣で震えている」

「呉君、戦争がずっと続くとは思わない。お互い暫らく耐え忍ぶのだ」

「軍隊は台湾青年をも天皇の赤子だと嘯いているが、単に台湾青年が身を挺し天皇のため、死んでもらう魂胆なのだ」

「おい、猿め、お前なんでへんちくりんな面を下げている」

「おい、皆の衆見たか聞いたか、猿が人間の話をしているぞ。この清国奴(チャンコロ)」

「その後は狂ったかのように、蹴る撲るの連打。僕は只歯をくいしばって耐えるのみ。こんな時僕は台湾人としての宿命を呪い、深い悲しみに陥った」

「横暴な内台の巡査が善良な百姓を痛めつける場面を多く見かけているから、軍隊における一部下士官の内台の別なく新兵を虐めているのを目にしても・・・・」

「軍部は全島民に万一の場合、軍と共亡する玉砕を要求し、大和魂の具現だと嘯く。僕ら島民は、家庭、親族を生命源とし、血縁を至宝と考え、この美徳を子孫が継承していくのを喜ぶ」

「監督兵は『能率が上がらん、もっと精出せ』と叱り、自分は木陰でのうのうと過ごしている」

「沈まざると言われた巨艦大和も撃沈されたが、軍部は秘して語らなかった」

5. 陸軍内務班

ウィキペディアによれば「内務班(ないむはん)は、軍隊の営内居住者のうち軍曹以下の下士官及び兵を以て組織された居住単位」であり、日本陸軍の歩兵連隊では「平時編成と戦時編成があり、平時編成では内務班は中隊に属し、戦時編成になると中隊の下に小隊や分隊が編成される」とあります。したがって、「天亮前後」の夜明け前に登場する台湾兵はこの内務班に所属していたのでしょう。さらに「新兵の躾教育は、この内務班で行われた。内務班で「しごき」と私的制裁が横行したことは良く知られている。」とありますの

で、坂本班長の言行はそれに相当するものでしょう。
終戦直後、復員してきた伯父、叔父から軍隊の話を聞いたことがある。柱に抱き着かせ、セミの鳴きまねをさせられたとか、机の間の通路に立たせ、手を机に置き、足を浮かせて自転車のペダルを漕ぐ真似をさせられたとか。途中で足を動かすのを止めた時、「なぜ漕がんか?」ととがめられ、「坂道であります」と答えて、許されたとか、さらにひっぱたかれたとか、伯父、叔父たちは面白おかしく語って聞かせてくれたのを思い出す。許育誠さんは一番つらかったのは「正座」でしたとのこと。

6. おわりに

ある方が言われた「日本統治には功罪あり、評価は半ばにあり」と、これが真実であろう。許育誠さんは、「色々な人がいたのは事実。我々はただ対等に扱ってほしかった。」
また、別な方が言う。比較してみて分かった。日本人より悪いのがいたということが戦後分かった。日本人はまだましだったと言うことだ。

台湾はすでに戒厳令は解かれ、万年議員もいなくなり、総統も選挙で選ばれるようになった。確かに暴力は否定されている。表面的には司法もあり、言論の自由は保障されているように見える。果たして夜は明け、暗雲は本当に晴れたのだろうか。しかし、今、台湾を呑みこもうとしている新たな脅威がある。領土があり、2,300万の民がおり、統治機構が曲がりなりにもあると言うのに、世界からは国家として認められていない。
 (文責在傳田晴久)

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