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――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(14)徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

【知道中国 1789回】                       一八・九・仲五

――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(14)

徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

 「ブルス氏は、英國倫敦大學の出身にして、支那山東省にある約三十年、自由に支那語を操り、頗る事務に練達したるものに似たり。而して該校の諸�授、外人と支那人とを問はず、何れも支那語にて�授しつゝあり」。

 斉魯大学に付設された「廣智院を見たり。院は一種の博物館にして、實物標本によりて支那人を�育す可く、特設せられたるもの」である。ここは1887(明治10)年に英人のリチャードによって青州に創立され、その後、済南に移された。現在の院主であるホワイトライトは「青州にある二十年、濟南にある十六年、通計三十六年を、山東に送」る。「氏も亦英人にして、如何にも篤厚、温雅の君子の風采あり」。

 廣智院が民生教育に果たしている役割に注目した徳富は、翻って「惟ふに我邦の各宗�家にして、果して一生の歳月を、支那傳道の爲めに投没する決心ある者ある乎」と問い返す。「予は英米其他の宣�師の隨喜者にあらざるも、彼等の中に、此の如き献身的努力者あるの事實は、縱令暁天の星の如く少きも、猶ほ暁天の星として認めざるを得ざる也」。

 どうやら徳富は「英米其他の宣�師」の献身的姿勢に甚く感心するあまり、彼らが何十年にも亘って現地生活を送る目的については関心がない。それとも思い到らなかったのか。

たしかに「我邦の各宗�家」であれ「英米其他の宣�師」であれ、「支那傳道の爲めに投没する」点は同じだろう。だが、「支那傳道」の先に何を見据えていたのか。

 明治初年、兵要地誌作りの目的で天津から満洲を旅行したと思われる曾根俊虎は『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)で、旅先で目にした西欧勢力の進出ぶりと亡国への道をひた走る清国の惨状を前に、「東洲を振はし西洲を壓する」ための日中双方による「合心合力」のが急務だと語っていたが、「我邦の各宗�家」による「支那傳道」の目的は、精々が「東洲を振はし西洲を壓する」ために「合心合力」を訴えることではなかったか。これに対し「英米其他の宣�師」は大陸を舞台にして列強間で展開されていた利権争奪戦の先兵役を担っていたと考えるべきだろう。

 青島の手前の坊子の停車場で徳富が目にした光景は、あるいはそのことを物語っていたのではあるまいか。

 停車場で徳富は「一團の支那人、胸に赤紐を著け、整列したるを見たり」。さては観光団かと尋ねると、駅員が「西歐戰地行きの苦力」と応える。つまり「英佛人が、山東苦力を後方勤務に使用する」ための動員である。かりに欧州での戦争が長引けば、「恐らくは軍隊として、之を使用するの日あらむ」。

 英米両国は民衆教化のために高等教育施設やら博物館を設けるばかりか、何十年も現地に居ついている人々を擁す。加えて民衆教化のための先兵として宣教師を位置づける。なら洗脳戦の“絨毯爆撃”といったとこだろう。片や「東洲を振はし西洲を壓する」ために「合心合力」を目指し、片や山東苦力を「恐らくは軍隊として、之を使用するの日あらむ」のであろう。

 やがて到着した青島を一瞥して、徳富は「如何に獨逸人が、天然を征服し得たかを知」り、「蓋し青島は、獨逸人がが日本人に與へたる、寶物�育也。吾人は此の標本に就て、深く窮め、切に學ぶ」べきだと考える。「獨逸人は、其の巖石に穴を穿ち、土を生めて、樹を栽ゑ、今は立派なる翠松の茂れるあり、兎群も棲息すと云ふ。一事が萬事也。吾人は獨逸人の堅忍不抜なる精神と、其の綿密周匝にして、初心を貫徹せずんば止まざる努力とに對しては、眞に多大の敬意を拂はざるを得ず」とする一方で、「徒に眼前の小利を貪り、遠大の長計を閑却する」ような在青島日本人の振る舞いを「深く戒め」るのであった。《QED》

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