八田與一。台灣精神
作者:顔利真
五月八日は、『嘉南大圳の父』八田与一先生逝去六十九年の
記念日でした。台湾に卓越した貢献をされた日本の技師に対する、
台湾人の感謝の念は、烏山頭ダムから田畑に流れ込む流水のよ
うに、とどまることがありませんでした。しかし、今年の記念会は
『八田精神』と台湾農民の飲水思源の『台湾精神』が称えられず、
代わりに馬英九個人の『友日』ショーになってしまいました。
八田精神とは、艱難をはねのけ、その土地を深く愛し、人々に
幸福をもたらすことを言います。八田技師は嘉南大圳と烏山頭ダ
ムの建設に、人生のもっとも壮健な二十歳、三十歳代を全力投入
し、干ばつ地帯の貧困な15万ヘクタールの土地を『緑野』へと変
え、六十万農民の生活を潤した日本人です。嘉南平原に住む農
民たちは『嘉南大圳の父』『烏山頭ダムの父』と尊敬をもって呼ん
でいます。
当時、大工事が竣工した後、農民は技師の貢献をたたえ、「八
田友の会」を立ち上げ、日本の彫刻家都賀田勇に八田技師の銅
像を作成してもらい、ダムが一望できる丘の上に台座なしで置き
ました。工作服を着て、脚絆を巻いた足の片方を投げ出し、手で
頭を支え、沈思黙考、仕事の進捗状態を眺めている坐像はまさに、
八田技師そのままの姿を髣髴とさせるものでした。第二次世界大
戦後期、日本政府から銅、鉄など金属供出の呼びかけがありまし
たが、農民は彼らの尊敬する八田先生の銅像が毀損されるのを
恐れ、倉庫へ運び入れ隠しました。
戦後、人々は八田技師の銅像を元のところへ戻し、5月8日の
命日に祭礼を行おうとしましたが、当時の中国国民党政権は、蒋
介石以外の銅像を建てることを許しませんでした。日本人の銅像
などはもってのほかでした。蒋介石の銅像は八田技師の坐像と違
い、軍服姿の立像または馬上人で、高いところから人々を睥睨し
ているものでした。
八田技師の恩沢をしのぶ記念会などできない状況が続きました。
八十年代民主化が進み、特に李登輝前総統の時代になってから、
農民は亡くなられた八田技師に台座をつけ(神様に昇格)、毎年公
開記念会を持つようになりました。2007年の7月12日、八田技
師の遺徳をしのんで許世楷駐日代表は、金沢まで出向き、ご遺族
に感謝の勲章を当時の陳水扁総統に代わって渡しました。農民か
ら総統にいたるまで、秘密裏の記念会から感謝の勲章までのこの
歴史は、台湾人民の『果物を頂くときは、果樹を思う』、または、
『飲水思源』の台湾精神を表しています。
このような歴史背景があるにもかかわらず、中国国民党の党主席
馬英九は、一億二千万元を使って、当時の日本人の宿舎を再建
させたと、記念式場で話し、自分は反日だといわれているが、実
際は『友日』なんだとマイクで話していました。このような馬総統の
やりかたは、台湾人の間で、反感を買い、『三十数年八田精神も
台湾精神も無視してきた人が何だ』と、台湾人の間で不評です。
参加者の日本人が、「八田精神」と「台湾精神」をないがしろにし
て、大勢、馬総統の談話に頷き、握手をしているのを見て、悲しく
思ったのは私だけではないことをお伝えしたいと思います。