メルマガ「遥かなり台湾」より転載
16日(土)は台湾の総統選挙ですが、同じ日に屏東県竹田駅にある池上文庫で15周年記念式典が開かれます。
この式典に台北と台中に住んでいる知人に呼び掛けて何名かで一緒に参加することにしています。それで、初めて
参加する人たちのために、池上文庫のことを先に紹介しておきたいと思います。以下は雑誌「This いず 台湾」
(2003年第6号)に掲載された池上文庫の劉耀祖理事長に対するインタビュー記事です。
播かれた一粒の麦
まことに小さな駅がある。南回り線(高雄−台東)の竹田駅、日本時代の名がそのまま 残っている。駅一帯は竹田
駅園と名付けられ、そこに「池上一郎博士文庫」という一棟 がある。 ここには池上博士をはじめ、日本人から贈ら
れた書籍五千冊があり、台湾の人たちに愛読されている。なぜ、この地に「池上文庫」が建てられ、いまなお、池上
博士が敬愛されているのか。この文庫の創立に深く関わりあった劉耀祖氏にうかがってみた。 (インタビュー 林慧児)
(野戦病院長として赴任)
−池上博士はどんな方ですか
戦前、台湾におられた時の池上先生は存じません。私がお目にかかったのは戦後で、日 本留学の時です。日本の敗
戦にともなって、池上先生は帰国され、東京・池袋に近い東長崎で、内科の医院を開いていらっしやいました。そこ
に尋ねていきました。 私と池上氏の「接点」は、竹田に住む黄鳳蘭さんです。その黄さんから頼まれて、日本 で池
上先生を探しました。
池上一郎氏、1911年1月16日東京生まれ.府立一中一高(旧)東 京帝国大学(東大)医学部卒業という。当時でも
超工リートコースを歩 み、軍医となった。一九四三年、軍医少佐として高雄州竹田庄(村)に あった第一九七一二
部隊の野戦病院長として派遣された。この病院は現 在、竹田国民小学校になっている。池上先生は46年夏、帰国した。
−わずか一年半ほどしか竹田におられなかったのですね。
そうです。でも池上さんは、医療設備も医薬品も不足したなかで、日本の兵士と同じ ように、内科外科の13人の医者
とともに村の人の治療を引き受けられました。アメリ カ軍の竹田村への爆撃で、死者6人、負傷者多数を出したが、
池上先生は献身的な治療を続けられました。当時、日本の軍人は、いばっていたそうですが、池上先生はおだやかな方
だったといいます。
こんなエピソードもあります。池上先生は、自転車の練習中に、誤って醤油を運んでいた村の人にぶつかり、醤油が
全部こぼれてしまったのですが、先生は、丁寧に謝ってちゃんと弁償したようです。そんな万でした。
−それで、日本に留学にこられた劉さんはすぐお目にかかられましたか。
いいえ。探すあてもなく、どうすればいいかわかりませんでした。新聞の投書欄に池上さんの住所を教えてほしいと
書きました。すると、部下の万から、先生の住所と電話 番号の連絡がありました。すぐ、東長崎の医院にうかがいま
した。本当に、やさしく思いやりのあるホームドクターで、ここでも献身的なお仕事を続けていました。私との関
係は、ここからスタートしました。黄さんもよろこぴました。池上先生は野戦病院宿舎ではなく、黄さんの家の部
屋を借りて住んでいました。その部屋はいまでもそのまま保 存されています。
(戦後の訪台はなかった)
−戦後、池上先生は、何度か台湾にお出でになりましたか。
一度もお出でになったことがありません。池上先生は、ご性格から、熱心に患者の面 倒をみておられたのです。
−一度もですか。すると、台湾におられたのは一年半余り
そう、です。責任感の強い方ですから。一日としても病院をあけることができません でした。八十四歳で病院を
やめられる時には、患者のひとりひとりのカルテを詳細に記 して、友人のお医者さんにバトンクッチをされる、
というような方でした。この間、先 生は台湾の人たちのことを思い、台湾からの留学生の支援もつづけていた
ようです。
(匿名で奨学金寄付 )
−退職されたあと、どうされましたか?
あくまでも匿名の方法で、台湾の地方の文化の橋渡しのため、奨学金や日本の歴史・ 地理や文化関係の本を竹田郷
(村)の頼耀熙村長に寄贈したのです。頼さんは、台湾も 潮流が変わり、口本の書籍を集めて一般に見てもらえる
ようになったので、記念文庫の 設立を進めました。ところが問題があったのです。
−どんな問題ですか。
竹田駅なんです。鉄道は一九三〇年代に入って赤字が膨らみ簡易駅(無人駅)になってしまいました。かつての米の
集散地として賑わった竹田(清朝時代は「頓物」といわ れた)も、車社会を迎えて、さぴれてしまい、台湾有線鉄路局
(日本の運輸省に相当) が老廃の竹内駅を廃止することを決めたのです。それで、竹田村の陳龍雄・村会代表委員会主
席や地万の有識者が集まり、鉄路局や行政院(内閣)の文化建設委員会(文化庁 に相当)に、駅舎の保存を陳情しました。
−結果は成功でした?
はい。文化建設委員会は、竹田駅の保護に、2495万元(約1億2千4百万円)を 計上し、鉄道文化駅園区を認定しました。
これが「竹田駅園」です。そして池上先生や 日本の篤志家の方から寄贈していただいた五千冊の本で「池上文庫」をつくり
ました。
−池上先生は、この文庫の設立をご存知だったのですね
「竹田駅園」 は、2001年の1月16日、池上先生のご誕生日に合わせて設立祝 典が開かれました。老齢のため、ご出席でき
なかった。池上先生は贈られたビデオテー プをご覧になって、とても喜ばれたそうです。池上先生は、その2ケ月後、お亡
くなり になりました。ちょうど90歳でした。
−「池上文庫」 の現状はいかがですか。
いま文庫の会員は約 150 人、ボランティアの方々によって運営されています。国家休日と月曜日が休館、火−金曜日は午前
8時半から11時半、午後は2時−4時、土・日 曜口は午前中だけで、午後休館です。 日本語を読める人たちが通ってきます。
時には高雄市に住む日本人も姿を見せます。いま竹田駅園が属する屏東県には、国立大学三校、私立大学四校合計七校があり
ます。それぞれ本語科を持っていますが、これらの教師や学生に呼びかけて「日本語人会」をつくりたい、と思っています。
その人たちに、この「池上文庫」を利用してもらいたいのです。こうしたことが、日本と台湾に播かれたささやかな麦の一
粒を、実あるものとすることと信じているからです。
**2013年10月に発刊した『日台の架け橋』の本の中に「竹田駅にある池上文庫」のメルマガ記事を収録したので同年この本を
寄贈させてもらいました。久しぶりに劉理事長や屏東の友人らと再会でいるのを楽しみにしています。その時にまた前回
発刊した『遥かなり台湾6』を池上文庫に寄贈するつもりです。
『台湾の声』http://www.emaga.com/info/3407.html