●暖かい台湾の心 瀬戸省三
昭和20年2月学徒出陣で台湾北部海岸を守った。9月に入ってようやく終戦を知らされ、現地除隊と
なって台中陸軍航空隊の南にあった自宅に向かった。台中駅に降りて自宅付近まで来ると家は一軒も
なく、生い茂る夏草の所々にコンクリートの土台だけが白く見えた。アメリカの4月の爆撃でやられた
とのことである。ところで父母は生きているだろうか。急いで姉の家を訪ね父母の所在を確かめた。
健在で台中市郊外の乾溝子という部落に、台湾の方のお世話になって暮らしているということであった。
早速乾溝子の父母を探して、夕方暗くなるころ乾溝子にたどりついた。父母は4月の爆撃以来、着の
身着のままで乾溝子の藍淵さんの世話になっていた。そこへ8月の終戦で兵役免除なった兄弟4人もお
世話になることになった。台湾の人たちは竹で作った寝台に寝て暮しているが、日本の方は畳の上でな
いと暮らしにくいだろうと、台湾の藍淵さんが早速煙草乾燥場に板をはって、その上にどこから探して
きたのか、畳を敷いて下さった。これには驚いた。感謝しながら翌年の3月までお世話になったが、日
本人は市内の小学校に集合して日本に引き揚げることになった。丸一年家族6人でお世話になった上に、
一文なしの私たちに食物を与えてくださったのである。
いよいよ21年3月に別れの日がやってきた。藍淵さんが言うには「台湾から福島まで一週間もあれば到着
していたのだが、今は終戦の混乱期、途中どんなことに出会うかわからないから、この一斗缶を福島まで
捨てないで持って行ってください。中に干飯が入っています。」と言って一斗缶を餞別にくださった。
市内の小学校に集合する途中どんな危険があるかもわからないから、部落の若者を護衛につけてあげます
と言われ、5人の若者に守られて何事もなく市内の集合場所に着いた。集合場所で別れを惜しんで話が弾んだ。
「藍淵さはじめ部落の人にお世話になったことは一生忘れません。お互いに頑張って生きていきましょう」と
いって別れた。やがて基隆まで汽車に乗ったが汽車は超満員で、足の踏み場もなくトイレにも行けない状態
だった。基隆から船に乗ったが船の中も混雑していて三度の食事は子供のいる親たちがうばいあい、我々の
口に入ることはなかった。仕方ないから藍淵さんにいただいた一斗缶の干飯を毎日少しずつ食べて、命をつ
ないだが日本に上陸して東北方面の汽車に乗るまで何日もかかった。
台湾を出発してから福島に着くまで藍淵さんの予想した通り一か月もかかった。食堂があるわけでなし食べ
物はどこにもない。藍淵さんの餞別にいただいた干飯だけがたよりで、ようやく福島にたどり着いた。
それから35年後、教職を退職してお世話になった台湾の人たちをたずねたが、昔の家は残っていても、
お世話になった人たちに会うことが出来なくて残念でなりません。暖かい台湾の心が、いつまでも忘れられず、
感謝して毎日を送っています。
注:本稿は台中市明治小学校同窓会が平成22年10月14日に発行した「小ざくら会報」に掲載されたもので、
作者は昭和13年に同校を卒業されました。