一読者
今回いただいたメルマガの一部に、ちょっと事実関係が違うように思われた点があったので、お知らせします。
それは、以下の部分です。
元立法委員の朱高正は、実際のところ李登輝が呉敦義を本流に据えたことは一度もない、と話す。
そもそもの原因は、1996年の総統選挙の際、李登輝は各地で行われた選挙集会を周っていたが、
南投を訪問した際に当時の南投県長(知事)だった呉敦義は、
もはや南投での勝利は堅いと見て、総統の李登輝がわざわざ舞台に上る必要はないと連絡していた。
後にこれが党幹部の口から李登輝の耳に伝わり、これによって李登輝の不興を買った呉敦義は南投県長に続いて高雄市長を命ぜられ、
(李登輝政権が終わるまで)二度と台北に戻ることは出来なかったのだ、という。
呉敦義の経歴 ウィキより
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%90%B3%E6%95%A6%E7%BE%A9
従って、1996年当時、呉は高雄市長であり南投県長というのは誤りかと。これは朱高正の記憶に誤りがあったとも思われますが、
そもそも朱のようないい加減な人物の話を裏を取らずに書くのはどうかなという気もします。
ご対応方、よろしくお願いします。
以下原文
【白先生】呉敦義・国民党新主席とは
日本李登輝友の会ホームページより
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台湾人は呉敦義を「白賊義」(ウソつきの呉敦義)と呼んでいる。
だから敬称の場合は「呉先生」ではなく「白先生」になるのだ。
くれぐれも間違いのないように
「台湾の声」編集長 林 建良(りん けんりょう)
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5月23日、聯合報に「呉敦義の素顔 マクドナルドを愛する新主席は馬英九前総統と不仲」と題する記事が掲載されました。
今後、蔡英文総統の政権運営や来年の6大首長選挙、2020年の総統選挙にも大きく影響を与えかねない国民党の新主席の素顔を紹介した記事を参考のため、翻訳して本会会員に供するものです。
「呉敦義の素顔 マクドナルドを愛する新主席は馬英九前総統と不仲」
今般、国民党の新主席に当選した呉敦義・前副主席。蒋経国に見出され政治の世界へ入った呉敦義だが、現実には大きな派閥に属するわけでもなく、党の重鎮というわけでもない。李登輝によって高雄市長に任ぜられたが、在任中に「尖閣諸島は中華民国の領土」と発言するなど、決して台湾独立派というわけでもない。後に馬英九政権で副総統に取り立てられたが、馬総統と王金平・立法院長の政争(馬王政争)が起こると、呉敦義は王院長の擁護にまわり、馬総統との関係が悪化した。とはいえ、呉敦義と王金平が良好な関係というわけでもない。
蒋経国の目に留まった「呉敦義の十字架」
呉敦義は台湾大学在学中、大学新聞の総編集長だった。当時、女子寮での空き巣事件や、キャンパス内での車両横転事故などが続発しており、大学の堕落を感じていた呉敦義は「台大学生の十字架」と題した文章を書いた。これが当時、中国青年救国団の主任と国防部長(国防相)を兼任していた蒋経国の目に留まり、1968年5月24日、呉敦義は救国団本部で初めて蒋経国と面会した。一つの文章が蒋経国との会見と抜擢に繋がり、後に政界への道が開けることになったのだ。
父は白色テロの被害者 国民党に対する思いは複雑か?
呉敦義は党主席選挙期間中、蒋経国に抜擢された恩について、何度も言及した。ただ、あまり知られていないことだが、呉敦義の父親もまた白色テロの被害者であった。呉敦義が蒋経国に初めて会った頃、すでに米ピッツバーグ大学への留学が決まっていたが、当時父親は75歳と高齢で、そのために呉敦義は留学を諦め、父親のそばにいることを決めた。呉敦義の国民党に対する思いには複雑なものがあるだろう。
「尖閣諸島の主権を守る」 呉敦義は第二の李登輝にはならず
呉敦義と李登輝が面識を得たのは、呉敦義が台北市議のときである。かつて呉敦義自身が、当時市長だった李登輝とは密接な関係にあったと話している。「李登輝市長は答弁しているうちに話が脱線することがよくあった。だから私がいつも軌道修正していたんだ」。
党主席選挙期間中、急進的な中国統一派である(国民党内の)黄復興グループは、呉敦義と李登輝の関係を取り上げ、呉敦義を「台湾独立派」であり、「第二の李登輝」になると攻撃した。1990年、高雄市でスポーツフェスティバルが開かれた際、高雄市長だった呉敦義は、聖火を船団によって尖閣諸島に届けるパフォーマンスを計画し、「尖閣諸島の主権は中華民国にあり」と主張しようとした。後に、このパフォーマンスは日本が海上保安庁の船艇を派遣したために船団は引き返さざるを得なかった。(この船団に呉敦義は乗船していなかったが、そのことを)立法院で質問された際、呉敦義は「李登輝総統が自分の代わりに秘書長を行かせるように、と命じたので私自身は参加できなかった」と答弁している(訳者注:真偽は定かではない)。呉敦義陣営も、こうしたエピソードを披露し、呉敦義が台湾独立派でないことはもちろん、第二の李登輝になることもない、と抗弁している。
李登輝の不興を買ったために地方回り
元立法委員の朱高正は、実際のところ李登輝が呉敦義を本流に据えたことは一度もない、と話す。そもそもの原因は、1996年の総統選挙の際、李登輝は各地で行われた選挙集会を周っていたが、南投を訪問した際に当時の南投県長(知事)だった呉敦義は、もはや南投での勝利は堅いと見て、総統の李登輝がわざわざ舞台に上る必要はないと連絡していた。後にこれが党幹部の口から李登輝の耳に伝わり、これによって李登輝の不興を買った呉敦義は南投県長に続いて高雄市長を命ぜられ、(李登輝政権が終わるまで)二度と台北に戻ることは出来なかったのだ、という。
馬車馬となって偉大なる中華民国を取り戻す
洪秀柱・現国民党主席も、選挙期間中、呉敦義の国家アイデンティティについて「自分が中華民国の国民と思っているのなら、なぜ自分を『中国人』だと言わないのか。おかしいではないか」と指摘している。これに対して呉敦義は「なぜそうなるのか。われわれの中国国民党はとても素晴らしい名前ではないか。これこそまさに中国という名前が中華民国を代表していることであり、何ら間違いもないし問題でもない」と反駁している。
さらに「2018年に国民党は復興し、2020には中華民国が再起する。40年に亘って党に尽くしてきた私が、馬車馬のように働いて党を苦境から救い、党の栄光と偉大なる国家を取り戻す」と話した。
両岸政策の立場につき、呉敦義は党主席当選の夜、習近平・中国共産党総書記からの祝電に答えるかたちで「1992年、両岸双方は『一つの中国の原則を堅持するが、それが指す内容については、双方が口頭による声明の方式でそれぞれ表明することに同意し』ており、これがまさに本来の「92コンセンサス、一中各表」だ、と強調している。
馬英九の重用で政治高峰
高雄市長選に敗れた呉敦義は、地元の南投に戻り立法委員となった。立法院では後ろ盾はなかったが、馬英九に見出されて重用されると、党秘書長を振り出しに、行政院長から馬英九政権の副総統まで政治ポストを駆け上がっていった。
しかし、2013年に起きた「馬王政争(馬英九総統と王金平立法院長による政争)」では、呉敦義は馬総統に先駆けて記者会見を行い、馬総統に対し王院長を擁護する姿勢を露わにした。しかし、馬総統はそんな呉敦義の「助言」にも耳を貸さずに自らの記者会見を強行する。こうした馬総統の行動を見た呉敦義は、国民党や馬政権がこれまでにない凋落を見せることを予見したという。
事実、二期目の馬英九政権は、ガソリンと電気料金の値上げに踏み切るだけでなく、証券税から軍人・公務員・教員のボーナス削減などに手を付けた結果、支持者離れは加速化し、結果的に政権を手放す羽目になる。
王金平の誕生日 呉敦義は祝宴を開く
今年3月17日、王金平・前立法院長の誕生日に、国民党主席の洪秀柱や、副主席の郝龍斌らはお祝いの花を贈って済ませるなか、呉敦義は王金平のために祝宴を開いた。2015年、国民党の総統候補者に名乗りを上げていた洪秀柱を下ろすため、当時の党主席、朱立倫は王金平を官邸に訪ね、総統選への出馬を要請した。しかし王金平は朱に対し「なぜ呉敦義にチャンスをやらないのか」と答えたという。朱立倫はその場で「笑うだけで答えなかった」としている。王金平は新しく党主席に就く人間は、党の再起に努力するべきで、その地位を個人の踏み台にするべきではないという考え方だ。呉敦義が党主席に就任した後、いかに王金平を重用していくか観察する必要がある。
呉敦義はコーラがお好き
プライベートの呉敦義は、実はマクドナルドが好きで、特にフライドポテトが大好きだ。ただし、太らないよにうに一度に10本までと決めているという。また、コーラも大好きなのだが、うわさによると、奥さんの見えないところでしか飲まないという。さらにはハーゲンダッツのアイスクリーム、台北郊外のレストランで食べる麺線(台湾風そうめん)や饅頭、高雄の六合夜市にある老舗のパパイヤミルクも大好きだ。これまで政界を縦横無尽に駆け抜けてきた呉敦義だが、実はお腹の出ているのがばれてしまうジーンズが苦手だという。しかし、5月19日、党主席選挙の前夜、呉敦義は周囲にさんざん説得され、自身も半ばヤケになって、結局はジーンズを履いて舞台に上がった。こうしたところが素の呉敦義なのである。