西村眞悟
八月二日、
台湾のバシー海峡に面した最南端の潮音寺で、
大東亜戦争において、バシー海峡に水没した十万人以上、もしくは二十万人、とも
いわれる日本軍将兵の慰霊祭が行われた。
同日、大阪の天王寺区にある鶴林山性厳寺において、
大東亜戦争において沖縄県座間味島守備隊長、梅澤裕帝国陸軍騎兵少佐の一周忌の
法要が行われた。
この日、私は、バシー海峡において、
この蒼い穏やかな見渡す限りの海に没した十万余の将兵の霊に祈り、
同時に、遙か大阪の天王寺で一周忌法要が行われている梅沢裕騎兵少佐の霊に祈っ
た。
数年前、バシー海峡を見渡す台湾最南端のギャランピー岬の岩場を降りて、
海面と同じ高さのぎざぎざの岩礁に立った。
そして、底の知れない海を眺めた。
かつて十数万の日本軍将兵を呑み込んだ海は、蒼く鏡のように穏やかに南に見渡す
限り広がっていた。
私は、目を瞑り「海ゆかば」を謳った。
歌が終わりに近づく時に、突然、私の足に波がぶつかり、その飛沫が顔にかかっ
た。
鏡のような海に急に波が立ち私に当たりに来たのだ。
歌を終え海を見詰めると、もとの静かな蒼い海だった。不思議だった。
私は、今も、あの波は、将兵の霊が「海ゆかば」に応答してくれたものだと思って
いる。
何故なら、バシー海峡の海に吞まれるように沈んでいった十万を超える戦没
者は、
今まで知られることもなく忘れられつつあったからだ。
昭和十九年八月十九日、午前四時五十分、
最大の陸軍特殊輸送船(揚陸母艦)「玉津丸」(長さ140メートル、9590ト
ン)は、
台湾からフィリピンのマニラを目指してバシー海峡を航行中、
アメリカ海軍の潜水艦から左舷中央部に二発の雷撃を受けて十分間で沈没した。
乗り込んだ将兵四千八百二十人のうち、生存者は六十五名で、四千七百五十五名が
戦死した。
十二日間の漂流の末に奇跡的に生き残った静岡の独立歩兵第十三聯隊の中嶋秀次上
等兵は、
戦後復員してから、バシー海峡で水没していった戦友の慰霊を生涯の目的として働
き始めた。
そして、遂に、生還から三十七年が経過した昭和五十六年(一九八一年)八月に、
バシー海峡で水没した多くの将兵の遺体が流れ着いた台湾最南端のバシー海峡を見
下ろす丘に、
私財をなげうって潮音寺を建立し、
平成二十五年(二〇一三年)八月、九十二歳の生涯を閉じた。
梅澤裕帝国陸軍騎兵少佐は、
陸軍士官学校五十三期、昭和二十年、沖縄県座間味島の守備隊長となり同島に赴任
すると、
アメリカ軍上陸を直前に控えて、
住民から集団自決用の小銃、爆薬等の提供を要求される。
梅澤隊長は、住民代表に、自決用の武器等の提供を拒絶して、
自決をしてはならんと諭して帰した。
しかし、住民は、集団自決を決行してしまう。
これは、近くの渡嘉敷島でも同じであった。
終戦直後、地元のマスコミは、
「沖縄戦記、鉄の暴風」を編纂発行して、軍命令による住民の集団自決と報道す
る。
昭和三十三年、朝日新聞は、「週刊朝日」で、梅澤少佐が、住民に集団自決を命じ
たように報道する。
昭和四十五年、作家の大江健三郎は現地に赴くこともなく、「沖縄ノート」(岩波
新書)を出版して、
梅澤少佐が、住民に自決を命令したと書く。
そして、大江がノーベル文学賞作家となったので、梅澤少佐の自決命令説が「真
実」として定着しはじめる。
その後、梅澤少佐は、戦友や住民の慰霊を続けていたが、このまま、大江等の軍の
自決命令説が定着すれば、
国家と軍、そして、戦友さらに何より住民の名誉が著しく毀損されたままになるこ
とを憂い、
これを阻止するために、平成十七年、
「沖縄ノート」を書いた大江健三郎を名誉毀損で訴える。
裁判所は、「集団自決の軍命令の証拠なし」と認めるも、
「軍の関与は否定できない」との、訳の分からない理由で訴えを棄却する(最高裁
も同じく棄却)。
平成二十六年八月六日、梅澤裕少佐、死去、享年九十七歳。
葬儀において、
櫻井よしこ氏は、「梅澤さんの濡れ衣は完全に晴れた」との弔電を寄せ、
葬儀委員長の南木隆治氏は
「南京大虐殺の虚構も、従軍慰安婦強制連行の虚構も、集団自決命令の虚構も、
総て虚偽であることが明らかになった」との弔辞を述べた。
平成二十五年八月に、九十二歳で亡くなった中島秀次さん
平成二十六年八月に、九十七歳で亡くなった梅澤裕騎兵少佐
お二人は、大東亜戦争の終結から亡くなるまで、
生涯に亘って共に、たった一人で、戦友の慰霊を続けられ、
日本人の精神性と人の魂の崇高さを我々に示し続けて下さった。
このお二人の
中嶋秀次さんが生涯をかけたバシー海峡戦没将兵の慰霊祭と
梅澤裕さんの一周忌の法要が、
八月二日という同日に、
バシー海峡と天王寺の性厳寺で各々行われたことに感慨深いものがある。
嗚呼、戦いの日々を生き抜き、戦後も六十年間以上、戦後の風潮としての自虐史観
と一線を画し、
黙々と戦友同胞への誠を貫いて生きた勇者が、各地で次々と戦友のもとに帰って行
く。
そして、あと十年も経てば、我々は、総ての勇者とこの世で会えなくなる。
最後に、
「戦後70周年記念、2015年バシー海峡戦没者慰霊祭」のために、
日夜無私の働きを続けられ、
意義深い歴史的な実現を果たされた若き日本と台湾の男女の実行委員会の皆様に、
心よりお礼を申し上げます。
日本と台湾は、目に見えない絆で結ばれている。
日本と台湾は運命共同体である。
日本と台湾が団結すれば、東アジアの平和が確保され幸せな文明圏が誕生する。
勇者は日々、天に帰って行くが、勇者の魂を受け継ぐ君たちがいる。