【良書紹介】「台湾今昔物語(錦連著)」

【良書紹介】「台湾今昔物語(錦連著)」

臺灣通信(第六十七回)より

傳田 晴久
1. はじめに

前回の台湾通信「飛虎将軍廟」をお読みくださった友人が、「……何が何でも昔の軍人や役人は悪だったという、現在の日本に(日本のマスコミに)蔓延している不毛な歴史観に比べ、台湾の方々のほうが素直に生きておられる気がします。」というコメントをくださいました。私は彼にお礼を申し上げると共に「今度、台湾通信に『悪』でない憲兵のお話を書きましょう」と約束しました。台湾の著名な作家錦連さんがお書きになった「台湾今昔物語」に、戦時中の庶民の生活が活写され、軍人にまつわる逸話がいろいろ紹介されていますので、今回はそれをご紹介することにしました。

2. 錦連さんと「台湾今昔物語」

錦連さんは1928年台湾の彰化市に生まれ、現在高雄市に在住し、今年(2012年)83歳になられる。氏は私も参加させていただいている「台日南部志の会」の創立者で、現在は名誉会長を務めておられる。この「台湾今昔物語」は高雄市政府文化局が2011年11月に出版した錦連さんのエッセイ集(日文版、中文版)です。高雄市長の陳菊さんが「序」で、「日本領台末期から国民党政府が内戦に敗れて台湾に撤退して来た後の台湾を背景にした当時の庶民のこまごまな生活の様相や,日本軍民間の複雑に絡み合った微妙な愛憎を活写している」と書かれている。内容全体については高雄市文化局長の史哲さんが「鉄道局の電報通信員の職に在って、戦乱に明け暮れた時代、一般庶民の生活をつぶさに観察し、一般の人々が余り気にしていなかった民衆の人性の輝き、南洋に征って戦死したはずの台湾人日本兵の突然の帰還、228事件中、九死に一生を
得た駅の出札掛、米空軍の猛烈な空爆下、列車乗務していた車掌、
書中日本人教師と学童との子弟間の濃やかな人情物語、乱世の中
にあって流離顛沛の生涯を余儀なく送った人々・・・・・」と紹介されている。
尚、錦連さんは2010年高雄文芸賞を授与されています。

3. 「日本の憲兵」

本書には日本の憲兵にまつわる話が3話紹介されているが、ふたつはおっかない憲兵で、ひとつは優しいと言うか、人間的な憲兵の話です。まず優しい憲兵のお話を引用させていただく。

「・・・(略)・・・。列車の到着時刻を待つ間、毎日手持ちぶさたそうな憲兵さんが一人、ホームを行ったり来たりしている。堂々たる恰幅で、軍装凛々しく惚れぼれさせられる。腰につけて居る武器は固そうな革ケースに入っている拳銃一挺だけ。戦時に入ったとは言え、平和な日常に兵隊の姿を目にしたことは全く記憶にない。まして拳銃のようなものはそれだけで子供の好奇心をそそるに十分であった。改札口を通ってホームに入ると、すぐ憲兵さんを取り囲みピストルを見せてくれとせがむ。毎週まといつくので彼はいつも、『うるさいなあ、あっちへ行け』と言って取り合わない。いつも子供のような学生がしつこく粘るのである時、とうとう根負けして、「よし、見せてやる」と言って革ケースの蓋を開けた。ところが中は空っぽ。『ピストルが入ってないじゃないか!』我々は失望と不平の声を上げたが、彼は『そんな必要はない』と断固とした口調で言い放った。後年私はこの一幕をよく思い出して考えるのだが、全く『そんな必要はなかった』のだ。・・・(略)」(P.185「日本の憲兵 第1話」より引用)

第2話、第3話はおっかない憲兵、そうです、その憲兵はすぐ殴るのです。ひとりは駅の出札掛と切符を求める公務員との諍いをとがめて、「・・・・・双方の言い分を聞いたあと、憲兵は、『よし、分かった。眼鏡を外せ!』と大喝した。それはこれから顔を殴ると言う合図で公務員の男はびっくりして困惑の表情を浮かべたが眼鏡を外した途端、憲兵は低い上体を背伸びして相手の顔を拳骨で二三発殴りつけた。そして、『よし!行け!』と言うなりその場を離れた。男は屈辱に顔を紅潮させて鞄を取ると街の広場の方へ出て行った。あっけない結末でもめ事を処理する当時の憲兵にしてみれば日常茶飯事であったかも知れないが、それが戦時に於ける世相であった。」 (P188「日本の憲兵 第2話」より引用)

もう一人の第3話は、憲兵隊の取り調べの様子である。夜更けに電信掛張君が誤報(空襲警報)を発信し、大騒ぎになった翌朝、「・・・・・やがて憲兵は主任と張君を従えて上りの列車に乗り込み、台中憲兵隊へ連行していった。・・・・・(途中省略)・・・・・彼らが憲兵隊に着くと尋問が始まるのであるが、何か答えた途端、厳しい顔をした隊長がいきなり主任と張君を殴り、『きさまたち、ふざけていやがる』と怒号した。それから答える度にまた何度か殴られ、調書を取られてサインをしたあと、やっと帰されたのだと言う。」(P191「日本の憲兵 第3話」より引用)

4. 私が知っている憲兵

終戦時5歳であった私はもちろん日本の憲兵さんの姿、言行を知る由もない。最初に見た憲兵は米軍というか、進駐軍の「MP」であった。GHQ(第一生命ビル)の玄関の両側に白いヘルメットをかぶり、拳銃をぶら下げた二人の、いかめしいMPが立っていたのを見かけた記憶がある。

そして疎開先の信州の山奥、戸隠村の神社にMP(だったと思う)が来たのを覚えている。伯父が神主であり、神社を案内していたが、彼らは16ミリの撮影機を持って神主の所作を撮影していたが、柏手を打つ姿を何回もやらされるので、伯父はいい加減嫌気を指したのか、陰でぺろりと舌を出していた。此の時のMPはあまり怖い感じがしなかった。
台湾に初めて来た30年ほど前の事、台北の飲屋街(林森北路)、ある店で仕事仲間と飲んでいると、いきなり薄暗い部屋の電気がピカピカと点滅し、明るくなった。このピカピカはその筋の人(私服の警官)が来たという警告である。客の隣に座っていた小姐は一斉に立ち上がり、私は座ってなんかいませんと言う風情である。当時ライセンスを持たない小姐は客の隣に座ってはいけなかった。そして憲兵が数人、ドヤドヤと階段を下りてきた。そしてカービン銃を横にして我々に向け、一人ひとりチエックを始めた。台湾人の同僚が「出ましょう、出まし
ょう」といって私達を地上に連れ出す。私は「面白そうだ
から見ようよ」というと、その同僚は「伝田さん、いけません、あの鉄砲には弾が入っています」という。なんでもこの日、南部の高雄から凶悪犯が台北のこの辺りに逃げ込んだので、一斉捜査をしていたんだそうです。此の時の憲兵は恐ろしいと思いましたが、後程総統府の警備をしている若い憲兵のあどけないと言っていいような顔を見たときは、あぁ、こういう人もいるんだと思った。

その後、数年前ですが、台湾で中国語を勉強して居る時、言語交換しましょうと言うことで中年の陳さんと付き合い、彼の田舎(屏東)のお家を訪ねたことがあり、その時部屋の壁にオートバイに乗った憲兵の写真があり、「これ私です」と紹介された。「えっ、あなた憲兵だったの?」と思わず聞いてしまった。彼は実に優しい高校の先生でしたが、数年前に急病死してしまいました。

私が知っているもうひとりの憲兵は、テレビドラマなどに出てくる憲兵です。これは憲兵なのか、特高(特別高等警察)なのか定かではありませんが、サーベルをガチャガチャ言わせながら、怒鳴り散らし、ものすごくおっかない「人」です。こういうステレオタイプ(紋切型)に憲兵を表現しないとドラマ、物語にならないのでしょうか。

5. 鉄拳制裁

第2話の憲兵がぶん殴ったのはいわゆる「鉄拳制裁」でしょう。辞書によると鉄拳制裁とは「げんこつで殴ってこらしめること」とあります。異論はあるでしょうが、秩序維持のため、或いは教育の一環として鉄拳制裁が効果的なこともあるのではないでしょうか。諍いの原因は、公務員氏が出張許可証と乗車賃の現金を持った手を出札掛の小さな窓口にいきなり突っ込んだので、出札掛の女性が思わず手にした算盤でその手を叩いたというのが事の発端でした。喧嘩両成敗であれば二人ともぶんなぐられるはずですが、憲兵は公務員氏のみ殴っている。憲兵は双方の話を聞いた後で殴っているから、憲兵は先に手を出した方が悪いと判断したか、公務員氏が欧巴桑にまくしたてられたかでしょう。こういう諍いをまともに取り合っていてはおそらく収拾つかないでしょう。どちらにもそれなりの言い分があり、双方決して折れないでしょう。当地の欧巴桑たちの口げんかはすさまじいので、おそらく憲兵さんは少しでも余分に悪そうな方に鉄拳制裁を食らわせることによっておさめたのだと思います。

第3話も鉄拳制裁です。いきさつはよく解らないが、憲兵隊長は「きさまたち、ふざけていやがる」と言って殴っているので、これは鉄拳制裁と思われます。裁判も無しに、憲兵が庶民を罰する権限が当時あったかどうかわかりませんし、現代の人権感覚で当時の憲兵を裁くことは如何なものでしょうか。

6. おわりに

行動や考え方が固定的・画一的であり、新鮮味のない事を「ステレオタイプ」と言います。冒頭の友人のコメント「……何が何でも昔の軍人や役人は悪だったという云々」はまさにステレオタイプの典型です。このような見方では真の姿は見えてこないし、正しく伝えることは困難でしょう。私は全ての憲兵がみないい人ばかりだったと言うつもりはありません。中には第1話のような憲兵もいたという事実が大切と思います。日本統治が、台湾であれ、朝鮮であれ、すべて悪だったのではなく、良い面もあったということを封殺するのは如何かということです。

錦連さんは、書き残しておくべき事柄がまだまだたくさんあり、時間が足りないと仰っておられます。一見些細なことと思われる事柄でも、それを書き留めておくことは後にその時代を理解するときに重要な資料になると言います。拳銃の革ケースの中が空っぽであったという事実は、まったく「そんな必要はなかった」時代があったことを我々に伝えてくれます。
 
(文責在傳田晴久)


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