SANKEI EXPRESSより転載
多くの日本の方々が、高齢の李登輝元総統の大腸がんの手術を心配してくださいました。さいわい手術も無事に終わり、「李登輝感恩音楽会」も開かれました。最前列の真ん中の席に、白い花束がおかれていました。11月に急逝された台湾独立建国連盟主席、黄昭堂(こう・しょうどう)先生をしのんで、李登輝元総統が哀調の意をあらわした花束です。
■独立運動の勇者
黄昭堂先生は台湾大学を卒業したあと、1958年に日本へ留学し、東京大学で博士号を取得。そのあと昭和医大で教鞭(きょうべん)をとり、1992年のブラックリスト解除まで、34年間日本で苦しい亡命生活を続け、台湾独立の基盤を築き、ひいては台湾の民主化を推し進めた台湾人にとっては大事な人物です。28歳から79歳で世を去る日まで、終生台湾を愛し、独立運動を指揮してきた勇者でしたが、心の広い穏やかな人柄は、多くの人々を魅了してきました。新しい台湾の幕開けを人々に予感させながら、その喜びを分かち合うことなく去ってしまいました。
1960年2月、東京・大塚の小さなキッチンがついた6畳間の下宿で初めて会いました。留学生が4、5人座卓を囲んで、すき焼き鍋をつつきながら、熱心に台湾の情勢を話し合っていました。トイレに入ったら、蒋介石の写真が壁に貼ってあるではありませんか。1960年代、台湾では蒋介石の写真の前を通るたびにお辞儀をするように教えられていたので、びっくりしました。
間もなく、彼の周りには農業、医学、言語学、政治学、図らずも一致して台湾に関わる研究をしている留学生が集まりました。1960年4月、台湾独立運動の先駆けとなる『台湾青年』誌が発行され、台湾に関心を持つよう同郷への呼びかけが始まりました。わたしは結婚前、ボーイフレンドだった許世楷から、独立運動に参加するので、しばらくは国へ帰れなくなるがと、打診を受け「しばらくってどの位?」と聞きましたら、「まぁ3年ぐらいかな?」と言われましたが、帰国できたのは33年後でした。長くて3年と考えられていたこの雑誌も、42年間多くの人々に影響を与え、結局2002年6月の五百期まで続きました。
それ以来、優秀な台湾人留学生が台湾青年社に入り、台湾独立建国連盟へと発展していきました。募金活動、文章書き、校正、発送、時にはデモ、時には台湾島内の政治犯救援活動など、国造りのための苦難の戦いが始まったのです。白色テロの時代、蒋介石独裁政権下で台湾の親兄弟に迷惑がかかるのを恐れて、多くは名前を隠した秘密メンバーでしたが、公開メンバーの先頭に立ったのが、黄昭堂先生でした。1964年2月、ホテルオークラで記者会見を開いたのが、最初の公開活動だったと覚えていますが、黄昭堂先生を除いて、廖春栄、周英明、許世楷の3人は未練がましく、大使館員に見分けられないようにと、黒枠のめがねを掛けました。そのためでもないでしょうが、子一人母一人のその母が亡くなったとき、黄先生はお葬式のために帰国することができませんでした。
■34年後の帰国
帰国がかなったのは1992年の11月で、国を出てから34年後のことでした。時間があると、黄先生は生まれ故郷の台南県七股郷の廟前広場に座り、人々に台湾独立を説きました。2000年の総統選挙では、いち早く陳水扁総統を支持し、2004年は李登輝元総統と一緒に、「手護台湾」−台湾の最南端から最北端まで220万人の手をつなぐ人間の鎖をつくり、『台湾イエス、中国ノー』と、台湾人の願いを世界に向かって表す運動−を成功させ、陳水扁総統の再選を導いたのです。
今月(12月)の3日、大稲●(=土へんに呈の王が任のつくり、だいとうてい)教会での告別式で、長年の心の同志でもある高俊明牧師が「義人は神の国において太陽のように輝く。勇士がたおれた後、10人が立ち上がり、10人がたおれた後、100人が同じ理想を掲げその後に続く」と、立錐(りっすい)の余地もない満場の会葬者に話されました。
苦難に打ちひしがれながらも
希望の光を求める 人生を生きぬいた
君の青春は勇敢な歌
名前は土地の上に書き記されるだろう
空が明るくなっていく
愛が軽やかに広がっていく。
フォルモサ合唱団でうたう「夜明け」の歌に涙がとまりませんでした。「千の風」のバイオリン演奏がなされる中、曽文恵・李登輝夫人が、
秋高し 逝きし友みな 千の風
と心やさしい歌を隣に座っていた許世楷代行主席にわたされたのを読み、慰められました。
(許世楷(コー・セーカイ)・元台北駐日経済文化代表処代表の令夫人、盧千恵/SANKEI EXPRESS)
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■ロー・チェンフィ 1936年台中生まれ。60年国際基督教大学人文科学科卒業後、国際基督教大助手。61年許世楷氏と結婚。夫とともに台湾の独立・民主化運動にかかわったことからブラックリストに載り帰国できなかった。台湾の民主化が進んだ92年に帰国し、2004年〜08年、夫の駐日代表就任に伴って再び日本に滞在。夫との共著に「台湾という新しい国」(まどか社)がある。
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■フォルモサ 台湾の別称。16世紀、ポルトガル船が台湾を見つけ、船員たちが「イラ(島) フォルモサ(美しい)」と叫んだことが名前の由来とされる。