2019.12.23産経新聞
拓殖大学学事顧問・渡辺利夫
台湾では「省籍矛盾」といわれる。国共内戦に敗れた国民党政府が台湾を接収、敗走する軍人・軍属をはじめ多くの大陸出身者が台湾に流入してきた。彼らは「外省人」と呼ばれ、以前から台湾に居住する「本省人」とは異質の社会集団であった。新たな支配者となった国民党の専制は凄(すさ)まじく、台湾住民の深い怨嗟(えんさ)の対象となった。外省人は権力を放縦に行使する一方、台湾住民は無権利状態のままにおかれた。
≪台湾「省籍矛盾」の転機≫
省籍矛盾に対する住民の憤怒(ふんぬ)の爆発が「二・二八事件」(1947年)であり、その後長きにわたってつづく二つの社会集団の感情対立の淵源となった。
台北の街で露店を営む老女が外省人の取締官に銃剣の柄で殴られ金品を没収されるという酷(むご)いさまを目にして胸を塞(ふさ)がれ、やがて抗議の輪が台北から全島へと広がり、大陸から派された援軍によりようやくにして鎮圧されるという暴動であった。この事件を機に、日本統治時代に教育を受けたエリート、知識人層が追放の標的にされ、犠牲者は今なお不明ながらも2万人を超えるといわれる。李登輝氏も逮捕を恐れて逼塞(ひっそく)を余儀なくされた。
二・二八事件の後、1987年まで実に38年にわたり戒厳令が敷かれ、事件は闇に葬られてきた。しかし、戒厳令下にありながらも台湾の経済は発展をつづけ中産層が形成され彼らの権利意識が高まりをみせた。蒋介石にかわって実権を握った蒋経国はこの現実をみつめ翻身(ほんしん)を密(ひそ)かに決意。「中国国民党」は「台湾国民党」へと変じようとしていた。蒋経国の死後、李登輝氏が総統、国民党主席へとのぼりつめ、そうして台湾の民主化の幕が切って落とされた。
李氏は1995年2月28日、台北新公園で執り行われた二・二八事件記念碑落成式に臨み、犠牲者と遺族に対して公式の謝罪を表明した。二十数年前のその式典の光景を、私は鮮やかに思い浮かべることができる。省籍矛盾解消の画期であり、台湾を新たな社会統合へと向かわせる転機となった。
≪「二国論」に込められた意思≫
もう一つ、鮮明に記憶している事実がある。1999年7月9日、ドイツの公共放送の取材に応えて李氏が「二国論」を表明したことである。李氏はそこでこう述べた。
〈両岸関係の位置づけは国家と国家、少なくとも特殊な国と国の関係になっており、合法政府と反乱団体、中央政府と地方政府という「一つの中国」における内部関係では決してない〉
大きな驚きをもって受け止められたが、李氏の準備は着々であった。91年の憲法修正により中国共産党を「反乱団体」とする規定を廃止し、台湾の主権の及ぶところを台湾本島、金門、馬祖などの離島に限定した。中国による大陸支配の容認でもある。94年には総統、副総統の台湾住民による直接選挙制の導入を定める憲法修正の挙に出た。中華民国が大陸を含む中国全体の正統政権だという「虚構」をこの修正によって崩したのである。台湾という一つの政治実体を率直に認め、最高権力者を台湾住民が自らの手によって決定しようとする決意の表明である。
そしてこのことは、国民党が執権政党でありつづけるには、国民党の変身、つまりは「国民党の台湾化」を避けて通るわけにはいかないという李氏の意思表明でもあった。
あの巨大な大陸中国に抗して「小国寡民(かみん)」台湾の生存をいかにまっとうするか。虚構のうえに建国を進めるわけにはいかない。李登輝生涯の政治決断が二国論の中に鮮明に浮かびあがる。
≪満身に力、漸進的変革≫
李氏は司馬遼太郎との対談「場所の苦しみ-台湾人に生まれた悲哀」(『週刊朝日』1994年5月6・13日合併号)の中で次のように語っていた。
〈いままでの台湾の権力を握ってきたのは、全部外来政権でした。最近私は平気でこういうことを言います。国民党にしても外来政権だよ。台湾人を治めにやってきただけの党だった。これを台湾人の国民党にしなければいけない。かつてわれわれ七十年代の人間は夜もろくろく寝たことがなかった。子孫をそういう目には遭わせたくない〉
李氏は自ら設定した2000年の直接選挙への出馬を辞退した。この選挙で新たに総統に選出されたのは民進党の陳水扁氏だった。国民党の連戦氏は惨敗した。
権力のあり方を変えるには権力の懐(ふところ)に入ってこれを成し遂げるしかない、というのが李氏の信条にちがいない。旧套(きゅうとう)と専制の旧体制を民主と自由の新体制へと、満身に力を込めながら、しかし漸進的に変革してきた人物が李登輝氏である。国民党の敗北、民進党の勝利についても“これが民主主義というものですよ。新しい権力者の出現は中国の歴史において初めて国の指導者が平和裡(へいわり)に政権を次期総統に移転したという実例をつくりました”と語って自らの政治人生の幕を閉じたのである。(わたなべ としお)
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