産経新聞2015.5.1
杏林大学名誉教授・田久保忠衛
確か鈴木善幸内閣だったから、いまから34年ほど前になる。終戦の御詔勅を書いた陽明学者・安岡正篤氏から戦前戦後の政治家や軍人の人物月旦をうかがう機会を得た。たまたま次期首相候補の一人になっていた宮沢喜一氏に話が移ったとき、安岡氏は「ヨコの学問はできるのかもしれないが、タテができないと宰相には…」と平然と語ったのを思い出す。国際情勢が分かっても、日本人としての姿勢がなければ、その器ではないとの含蓄だ。
《膨張する中国と内向きの米国》
安倍晋三首相による訪米の始終を観察していて、日本の危機を救う国際的な指導者が久々に登場したとの感を改めて抱いた。
首相がワシントンで日米同盟のボルトを締め直した理由は2つあると考える。
1つは、いまさらここで強調するまでもないが、中国の常軌を逸した膨張政策だ。安倍訪米をはやし立てるかのように、中国は南シナ海のスプラトリー諸島で人工島の建設を進めている。係争下にある海域の岩礁を埋め立てて軍事基地化する「一方的な現状変更」に先進7カ国(G7)も、東南アジア諸国連合(ASEAN)も警鐘を乱打し始めたが、強引な実効支配を阻止する手立てはどうしたらいいのだろうか。
2つは、米国の「内向き」の姿勢である。これは世界的に深刻な反応を引き起こしつつある。軍事的かかわり合いを避け、もっぱら話し合いを重視するオバマ政権は、シリアへの対応が後手に回り、ついに「イスラム国」を生んでしまった。
イランとの核交渉に入っているが、それはシーア派のイラン、イラク、シリア、レバノンの武装勢力ヒズボラ、イエメンの武装勢力フーシ派を勢いづかせ、サウジアラビアなど親米的なスンニ派諸国は米国に不信感を募らせている。
世界の警察官にならないと宣言したオバマ政権は、ウクライナに軍事顧問を送っても戦闘部隊は送らない。アジアでは、ピボット(軸足)あるいはリバランシング(再均衡)を叫んでも、ほとんど行動は伴っていない。
《アジアで最も頼りになる日本》
中国や北朝鮮の脅威から身を守り、米国が内向きになった間隙を埋めるにはどうしたらいいか。安倍首相の照準は正確に合っている。「共通の脅威」と普遍的価値観を共有する同盟関係の強化以外に選択の余地はない。
上下両院合同会議の演説で首相は「アジア太平洋地域の平和と安全のため米国の『リバランス』を徹頭徹尾支持する」と明言した。いまの米国にとって、アジアで最も頼りになるのは日本であることを疑う米議員はいるだろうか。
同盟の具体的支えは、まずは日米防衛協力の指針(ガイドライン)再改定だ。戦後の日本が怠ってきた防衛政策の大転換は、安倍首相が戦後の首相として初めて手をつけた国家安全保障会議(NSC)の設置、防衛計画大綱の改定、集団的自衛権を限定的に容認する安全保障法制がらみの関連法案審議、さらに集団的自衛権が明記されたガイドライン-という一連の動きの中で明瞭だろう。
同時に米国との間で呼吸がぴたり合っているのは、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)である。中国には極度に気を使ってきたオバマ政権だが、大統領自身が「われわれがTPP交渉を完結しなければ、アジア太平洋地域で中国がルールを作り、米国は締め出される」と本音を吐露し、カーター国防長官は「広いリバランスの意味でTPPはもう一隻の空母並みに重要だ」とまで述べている。中国のアジアインフラ投資銀行(AIIB)への反感がむき出しになっている。
《国際的プレーヤーとして登場》
首相は日米首脳会談前のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年記念首脳会議では先の大戦に対する「深い反省」、米議会演説では「痛切な反省」と述べたものの、「植民地支配と侵略」への「謝罪」は言わなかった。
何と表現しても文句をつけてくる中韓両国のほか、米国にも同じ口調で歴史認識を迫る勢力が存在する。とりわけ、リベラルを代表するニューヨーク・タイムズ紙社説4月20日付「安倍晋三と日本の歴史」は、戦前の韓国が日本であった事実も、慰安婦の「強制」の根拠が崩れている実情も把握していない醜い代物だった。
安倍首相を「ナショナリスト」と批判してきたこの新聞は、今回も「安倍氏と右翼の政治家たち」と乱暴な表現を使っている。いつもながら安倍政権を見下したような占領軍的口調には、人種偏見的なものさえ感じる。首相はこのような手合いを相手にしてはいけないが、難しい判断を下す事情は理解できる。
オバマ政権の足らざるところを積極的平和主義で補う方向は、日米同盟を基礎に、日本が国際的プレーヤーに躍り出たことを意味すると私は解釈している。日本を主張しながら国際情勢の潮流に首相は乗って、戦後からの決別を決定的にした。(たくぼ ただえ)