王 明理 台湾独立建国聯盟日本本部 委員長
【戦後の台湾の状況】
日本人のほとんど知らなかった戦後の台湾の状況を簡単に説明しておきたいと思う。
昭和二十年八月十五日の終戦の日を台湾人は日本国民として迎えた。戦争中、20万人の台湾青年が日本兵として出兵していた。台湾人は日本人と同じ気持ちで敗戦を味わったのだ。それは、戦争に負けてしまった無念さと、これから先への不安と、長かった戦争がやっと終わったという一種の解放感のようなものであったろうか。
ただ、日本内地とちがった要素が台湾にはあった。それは、日本が戦争に負ければ、日本の統治は終わるだろうという暗黙の了解であった。そして、おそらく、中国軍が台湾を接収に来るだろうということも噂になっていた。しかし、その当時の台湾人は、中国人の手に渡されることがどのような過酷な運命をもたらすのか、全く知らなかった。
1945年9月2日、日本は連合国への降伏文書に調印し、連合国司令部は指令第一号を発表、満州を除く中国、台湾、フランス領北ベトナムの日本軍に蒋介石への投降を命じた。それに準じて、10月25日、台北公会堂にて台湾省行政長官の陳儀が安藤利吉台湾総督の投降を正式に受理した。これは日本軍の投降を連合国側が受理するだけのものだったはずだが、陳儀は台湾と澎湖諸島が中華民国になったことを同時に宣言した。国際法的には認められない行為であった。
原爆を落とされ都市を焼き尽くされた日本の状況は悲惨であったが、しかし、日本人には自分の国があった。それに比べて、台湾人は、日本の植民地が終わったあとも、自分の国を持つことが出来なかったのだ。連合国側の各国も、中国人の手に台湾を委ねたら、どんな悲劇が起きるかに気づいていなかった。それどころか、米英に至っては、この台湾という島に、教育の行き届いた市民が600万人も住んでいることすら知らなかったのではないかと疑われる。彼らは、まるで台湾が無人島であるかのように、蒋介石にくれてやったのだ。カイロ宣言は、へっぴり腰で抗日戦線から離脱しそうな蒋介石を引き留めるために、チャーチルとルーズベルトが「戦争に勝ったら、台湾をお前にやろう」と言った口約束であった。それが、ポツダム宣言でも踏襲されたが、国際法的な根拠はない。1951年にサンフランシスコ条約に調印した際も、日本は台湾・澎湖諸島の権利・権原・請求権を放棄はしたが、その時も台湾・澎湖諸島の帰属先は未定のまま放置された。
ここではっきりさせておきたいのだが、台湾は歴史的に中国領ではなかった。日本は清国から台湾を割譲されたので、そういう誤解が生まれたのだろうが、中国歴代王朝は台湾と無関係であった。1723年、清の皇帝(雍正帝)は自ら、「台湾ハ古ヨリ中国二属セズ」と明言している。ただ、安全保障上の見地から、他者に台湾を取られることを心配して、清朝は台湾を福建省の植民地とし、役人を置いた。だが、台湾の経営に関心がなく、台湾への渡航も固く禁じていた。1945年の時点で、過去を理由に中国に台湾を所有する権利があるというのであれば、先に来たオランダ、スペインにだって、権利があるということになろう。まずは台湾住民の意思を聞くべき機会を、連合国は持つべきだったのだ。十分に独立国として運営していく力を台湾人は持っていたのだから。
戦後、国民党は台湾を中華民国の一省に組み入れたので、台湾人を本省人、台湾にやってきた中国人を外省人と呼ぶようになった。台湾人とは、16世紀ごろから台湾に移民してきた人々の子孫と5000年前から台湾に暮らしていた先住民のことであった。移民は、ちょうどアメリカの移民と同様、母国の慢性的な飢餓状態で食べて行けなくなった者や、なんらかの理由で住めなくなった者が、荒波を乗り越えて、新天地を求めてやってきたのである。当時の台湾は熱病と荒々しい原住民の跋扈する土地であった。
台湾の原住民族は種族数が多い。(2014年現在、16種族を政府が公認している)日本人には高砂族と呼ばれていたが、現在では原住民族が正式な呼称となっている。移住民は原住民と戦ったり協力したりしながら、土地を開墾して住み着いたのである。移民は男性がほとんどだったので、平地の原住民女性と結婚した。彼らは母国に帰ろうとは考えず、台湾人になったのである。現在、台湾人のDNAを検査すると、90%近くの者に原住民のDNAが入っていることが確認されている。ちなみに、現在では、外省人の子孫であっても台湾を母国と考える人たちは台湾人として考えられている。
終戦から10月の投降式までの間、台湾人は、蒋介石が送り込んだ言葉の通じる者たちから「おまえたちは敗戦国民ではない。祖国の胸に帰れ」と言われて喜び、抵抗しようという気持ちは持たなかった。持つことはできなかった。自分たちは日本人として敗戦し、連合国が中国軍に投降しろと命じて日本人がそれに応じる以上、台湾人の独立国家を作る時間的余裕も方法もなかった。日本教育による遵法精神の賜物だったかもしれない。
やがて、やってきた中国人は、教育程度も低く、法律を順守するというセンスが皆無であった。アヘン戦争の頃からおよそ100年近くもの間、内乱や戦争に明け暮れていた中国からすれば、台湾は別世界であった。社会がきちんと機能するシステムがあり、インフラが整い、ほとんどの中国人の見たことのない水道や電気があり、清潔で、食糧も産物も豊かであった。中国人は官民問わず、獲れるものは全て略奪した。終戦時、台湾人の就学率は70%を超えていて、この数字は当時の世界各国と比べても高かったが、日本人の去った社会の重要ポストを中国人が全て占領してしまった。ろくに読み書きもできない中国人が、「中国語が話せないからダメだ」と台湾人を差別したのである。近代的精神をもった台湾人にとって、その驚愕と苦しみは耐えがたいものであった。「祖国の胸に帰れ」とは台湾人の抵抗を封じ込めるための方便であったと気づいたときには遅きに失した。
1945年10月25日から北京語が「国語」と定められた。そもそも、台湾人にとって北京語は全く通じない外国語のようなものである。言語学者であった私の父、王育徳の研究によれば、同じ西ゲルマン語派に属する英語とドイツ語の基本語彙の関連性は58.5%だが、台湾語と北京語の場合、51%に過ぎない。つまり、台湾人は、再び外国語を「国語」として押し付けられ、一から学び始める羽目になったのである。台湾人にとって唯一のリテラシーであった日本語が禁止され、本を読むことも文章を書くこともできなくなってしまった。もし、日本で、「今から二か月後の某日をもって、日本語を一切禁止し、公用語を中国語にする」と言われたらどんなことになるか、想像して頂きたい。学習して使えるようになるまでは、語ることも読むことも書くことも出来なくなるということである。テレビも学校も会社も中国語を使わなければならない。そんなとんでもない事が、台湾で実際に行われたのである。これが台湾の戦後のはじまりであった。
1947年2月28日に起きた228事件は、我慢に我慢を重ねた台湾人の怒りが爆発したものであった。台湾人は自分たちも政治や行政に参加させてほしい、社会に参画させてほしいという、当然の要求を示したが、結局は、蒋介石が大陸から送り込んだ国民党軍によって、大虐殺されて終わった。当時の台湾人600万人のうち、社会のリーダーとなるべき人々や青年たちが狙われて3万人が抹殺された。これだけの人材を失うことは数世代に亘る損失であった。そして、以後、台湾人の不平や抗議を封じるという大きな効果をもたらした。
228事件で中国人の残虐さを見せつけられ、抵抗する術を失くした台湾人のところへ、1949年、共産党軍に負けて大陸を追い出された蒋介石が200万の難民と共に、なだれ込んできて、台北を中華民国の首都にしてしまった。こうして、蒋介石、国民党は、母国を追われた奇形な植民地統治者となって、台湾を乗っ取り台湾に居座り続けたのだ。今もし、数百人の乗客の命を人質に飛行機を乗っ取るハイジャック事件が起きれば、大事件として、国際的なニュースになることは間違いないが、台湾島を乗っ取って、600万人の住民を人質にした蒋介石の犯罪には、誰も注意を向けなかった。人質になったのは、日本人がわずか数年前まで自国民として付き合ってきた台湾人であったのに、日本も見て見ないふりをした。以後、1987年に戒厳令が解除されるまでの38年間、国民党政府は反政府的な人物を排除するために、徹底的な監視を行い、少しでも疑わしければ、即刻逮捕し、拷問し、正当な裁判も無く投獄、死刑を行った。その被害者数は、10万人にものぼると言われている。
中国人は、台湾人の人権を奪い、自由な活動と言論を弾圧し、かつて経験したことのない苦しみを台湾人にもたらした。「アメリカは原爆を日本に落としたが、台湾に蒋介石を落とした」という説は言い得て妙である。
蒋介石、蒋経国と続いた一党独裁体制は、1988年、蒋経国の急死によって終焉を迎えた。副総統から昇格して総統の地位についた李登輝の時代に、台湾は大きく変化を遂げることになった。李登輝は日本語世代で、台北高等学校から京都大学に進み、在学中に徴用され、日本兵として戦争に行った経歴をもつ。李登輝は、政権の内部から、少しずつ、改革を進め、民主的な選挙で議員や総統を選べるようにし、台湾に民主体制をもたらした。
李登輝が総統の座に就く前年、戒厳令が解除されたので、この頃から、台湾人も自由に発言できるようになり、少しずつ台湾人の状況や2・28事件のことなどが外へ向けて発信されるようになり、日本人の台湾理解も深まっていった。
蒋政権時代の教育は、徹底的な中国教育で、約50年間、「台湾人は中国人である。台湾の領土はチベットからモンゴルまで含む中国全土である」と教え込んだが、この洗脳教育は今でも弊害となって残っている。李登輝時代になって、はじめて台湾教育が行われるようになり、民進党の陳水扁総統時代にはさらに進められた。この結果「自分は台湾人である」というアイデンティティが育つことになり、その効果は2014年のひまわり学生運動で明らかになった。
2000年に民進党の陳水扁が総統に選出され時には、いよいよ台湾人が政治の主導権を握る時代になったかと思わせたが、55年続いた国民党一党独裁体制は盤石で、議会、行政機関、軍隊、警察、秘密警察組織まで国民党が引き続き掌握していた。その為、陳水扁政権は思うような政治を行うことができなかった。台湾人の萌芽を潰したい中共の圧力もあり、結局、2008年に国民党の馬英九が総統に就任、以後、中国との平和統一に向けて、経済協定や人的往来の自由化を促進している。
その姿勢に危機感を覚えた若者たちが立ち上がったのが、ひまわり学生運動である。今や、外省人の三世、四世も台湾人意識を持つようになり、台湾独立をはっきり口にするようになっている。そして、若者に勇気づけられて、すっかり希望を失っていた大人たちも覚醒した。台湾はやっと戦後の夜明けを迎えたところである。
(続く)
著者:(おう めいり)東京生まれ。慶應義塾大学文学部英文学科卒。父王育徳の志を継ぎ、現在、台湾独立建国聯盟日本本部委員長。編集書『王育徳全集』『「昭和」を生きた台湾青年』、共訳書『本当に「中国は一つ」なのか」、他詩集など。
〔『伝統と革新』19号(2015年5月刊)「戦後はまだおわらないのか?」(たちばな出版)に掲載〕
2015.6.16 08:00