王 明理 台湾独立建国聯盟日本本部 委員長
【戦後日本と台湾人】
当たり前のことだが、台湾でも今年、戦後七十年を迎える。そして、「戦後はまだ終わらないのか?」という本特集号〔文末を参照〕の問いに答える。
「台湾の戦後はまだ終わっていない」と。
戦後日本と台湾の関係史を考える時、台湾人との関係は極めて希薄であったと言わざるを得ない。1952年に「日華平和条約」を結んだ相手は中華民国で、これは、台湾を植民地統治していた中国国民党政府のことであった。その関係さえも、1972年、日本は日中国交樹立したあと、日華条約を破棄して断絶し、今日に至る。明治28年から昭和20年までの50年間、台湾人は日本人であり、一心同体であったにもかかわらず、なぜ、日本は台湾人のことを慮ることがなかったのか。台湾人にしてみれば、残念この上ない戦後であった。なぜ、このようなことになったのか。その理由として次のようなことが考えられる。
一、台湾はもとから中国のものであったという誤った認識が日本人にはあった。そのため、戦後、台湾を中国人の手に渡すことに違和感がなかった。
二、終戦後、日本軍と日本人が中国及び台湾からが引き上げる際に、蒋介石が「以徳報怨」で臨んだ態度に恩義を感じ、蒋介石を高く評価していた。
三、日本も敗戦国で、GHQの占領下にあり、台湾の運命に口出しをすることはできなかった。占領終了後も、自分のことで手一杯だった。
四、日本も中華民国も自由陣営の一員として政府間同士の外交を持った。その中で呻吟している台湾人には気づかなかった。
五、中華民国政権は戒厳令(1947年、1949年―1987年)を布いていたので、言論報道が制約されていたため、日本人は台湾について知ることが少なかった。
六、1972年の日中国交回復以後は、中共の「台湾は中国の一部」「台湾と交流するな」という主張に、反対する気力も正義感を鼓舞するだけの知識も持たなかった。
ただし、これは日本政府の関係のことであって、民間の交流はかなり好調に続いてきたと言える。貿易や経済面の交流、学会の交流、観光などである。日本教育を受けた人が社会の現役であった時代は、日本語が通じる台湾は日本にとって一番仕事のしやすい相手であった。かつての恩師や同窓生を母校に招いて歓迎する風景もよく見られた。中国や朝鮮では日本の侵略戦争や植民地支配を厳しく糾弾されるのに、台湾に行くと、かつての統治政策を感謝されるので、逆に戸惑ったという声もよく聞かれた。台湾人にしてみれば、戦後、自分たちの人権を蹂躙して寄生してきた中国人より、日本人のほうが数倍よかったというのは心からの本音であった。
だが、戒厳令下の台湾人は、自分たちの戦後の悲劇や228事件のことなどを語ることはなかったので、日本人は台湾人の立場をほとんど理解していなかった。台湾社会には至る所に特務と言われる秘密警察員が紛れていて、228の事などをしゃべっただけでも命とりであったから、めったなことは話せなかったのだ。彼らが語り始めたこの20年くらいの間に、やっと日本人にも台湾の戦後史への理解が進んできた。
(続く)
著者:(おう めいり)東京生まれ。慶應義塾大学文学部英文学科卒。父王育徳の志を継ぎ、現在、台湾独立建国聯盟日本本部委員長。編集書『王育徳全集』『「昭和」を生きた台湾青年』、共訳書『本当に「中国は一つ」なのか」、他詩集など。
〔『伝統と革新』19号(2015年5月刊)「戦後はまだおわらないのか?」(たちばな出版)に掲載〕
2015.6.15 08:00