【独立運動に投身した台湾人】王育徳伝五)

【独立運動に投身した台湾人】王育徳伝五)

国民新聞より転載

王明理 台湾独立建国聯盟 日本本部 委員長 

1947年に起きた228事件は、終戦後一年半の間、我慢に我慢を重ねた台湾人の怒りが爆発したものである。せめて、自分たちの故国の政治や行政に参加させてほしい、社会に参画させてほしいという、当然の要求を政府、陳儀行政長官に訴えたのである。それに対し、蒋介石は、3万人の台湾人を無差別殺戮することで答えた。特に、社会のリーダーとなりそうな人材や若者をターゲットにした。当時の600万人の人口から考えて、3万人の有識者が社会から抹殺されるというのは、今の日本から、60万人の有識者が一度に失われるという計算になる。これは、数世代に亘る社会の損失であり、また、以後、台湾人の口を封じるという大きな効果をもたらした。さらに、これ以後も、1987年に戒厳令が解除されるまで、少しでも反政府的な考えをもつ人物を徹底的に排除するために、逮捕、拷問、投獄、死刑が、正当な裁判もなしに日常的に行なわれた。その被害者数は、10万人にものぼると言われている。

 この二・二八事件で、王育徳の兄、育霖も殺された。

王育霖は東大在学中に高文試験に合格して、台湾人として初めて日本の検事になった正義感の強い人であった。京都地検に勤めていた頃は、京都大学に通う台北高等学校の卒業生たちがよく家に出入りし、のちの総統、李登輝先生もその一人であった。

戦後、王育霖は祖国の建設のために役立ちたいと台湾に帰り、新竹市で検察官になった。しかし、正義感と日本仕込みの遵法精神がアダとなった。何人かの中国人の汚職を摘発し、ついに、新竹市長の汚職を看過できず、逮捕に踏み切ったのである。ところが、逆に市長の権力により、解雇されてしまった。その後、建国中学、延平学院の教師、及び林茂生と王添灯の主宰する新聞「民報」の顧問をしながら、弁護士を開業する準備をしていた。その最中に、「二・二八事件」が起こり、3月14日に連行されて、そのまま帰らぬ人となったのである。台北市内の西本願寺に収監されたことまでは分かったものの、遺体は結局見つかっていない。育徳にとって、最愛の兄が、わずか二十八歳で中国人に殺された無念さは計り知れないものであった。


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