【毎日新聞】中央大特別卒業証書、91歳の手に 戦争で学業中断

中央大 特別卒業証書、91歳の手に 戦争で学業中断

毎日新聞2017年3月3日 21時53分(最終更新 3月3日 23時01分)
http://mainichi.jp/articles/20170304/k00/00m/040/173000c

[写真(略)]中央大学の酒井正三郎総長(右)から特別卒業証書を渡された梁敬宣さん(中央)と妻の洪瓊華さん=台湾宜蘭県で2017年2月27日、鈴木玲子撮影

 【宜蘭(台湾北部)鈴木玲子】中央大学(八王子市)の酒井正三郎総長が台湾北部・宜蘭県三星に住む梁敬宣(りょう・けいせん)さん(91)の自宅を訪れ「特別卒業証書」を授与した。梁さんは戦争の荒波に翻弄(ほんろう)され、卒業できないまま終戦を迎え、台湾に戻っていた。梁さんは日本語で「ありがとうございます。うれしいです」と喜びをかみ締めた。

【写真特集】「特別卒業証書」を受け取る梁さん
http://mainichi.jp/graphs/20170303/hpj/00m/040/013000g/3
 酒井総長は、台湾で1947年に国民党政権が台湾住民を武力弾圧した「2・28事件」で、台湾出身の同大卒業生が犠牲になったことから、事件から70年の2月28日、犠牲者の追悼式典に出席した。これに合わせて27日に梁さんの自宅を訪れ、証書を渡した。授与には妻の洪瓊華(こう・けいか)さん(86)も同席。酒井総長は「お渡しするのが遅くなって申し訳ありません」と語りかけた。

 梁さんは台湾北部・桃園県平鎮(現・桃園市平鎮区)の大地主の家に生まれ、36年に世田谷中学(現・世田谷学園)に留学。44年に中央大学予科第一部(経済)に入学した。戦況は悪化し、2学期からは学徒勤労動員に駆り出された。赤羽の軍需工場で高射砲の信管を作った。「最後のころは風船爆弾作りだった」と振り返る。特攻隊を志願して特別操縦見習士官の試験も受けた。45年に終戦。46年に台湾に戻った。台湾に向う船の中、富士山を見つめ日本に別れを告げた。

 中大では第二次世界大戦で学業を中断せざるを得なかったOBに対し「在学中の学業精励を賞し」特別卒業証書を授与している。松野良一教授ゼミの学生らが続けてきた同大出身者への戦争体験聞き取り調査で、6年ほど前に梁さんが証書の授与対象者と分かった。

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 梁さんの自宅の庭にはバラの木がある。平鎮から転居する際、大事に運んできた。戦時中に工場で共に働いた東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の学生、粟屋康子さんとの思い出が詰まった大切なバラだ。

 勤労動員が続く中、康子さんは一緒に働く梁さんたちに赤いバラを贈った。梁さんは康子さんに恋心を抱いたが、いつ出征するかもしれない時代。「髪の毛をひと房、私にください」と願い出た。その後、梁さんは埼玉の工場に移り、康子さんは新潟に疎開し、離れ離れになった。

 康子さんは父の粟屋仙吉・広島市長ら家族3人を広島への原爆投下で失った。終戦直後、被爆した母を看病するため、東京の自宅を訪ねて来た梁さんに広島行きの切符の購入を頼み込んだ。「戦勝国人」になった梁さんなら切符が手に入った。康子さんは広島に旅立った。看病むなしく母は死亡。数カ月後、康子さんも19歳で亡くなった。2次被爆の影響とみられる。

 敗戦の衝撃と、思いを寄せた人の死。深い悲しみを胸に梁さんは46年、台湾に戻った。自宅の庭に、肌身離さずに持っていた康子さんの髪の毛を埋め、その上に康子さんにもらったものと同じ赤いバラを植えた。亜熱帯気候の台湾北部で、バラは長くもっても10年ほど。挿し木や接ぎ木を重ねて守り続けた。

 梁さんの家族が康子さんの髪の話を知ったのは、ほんの10年前のことだ。「大切にしています。人が死んだのですから」。今回の訪問時、梁さんは言葉少なに思いを吐露した。


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