平成21年12月 3日(木)
西村真悟のコラムより転載
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『シナ人とは何か』という本が、展転社から出版されている。副題は「内田良
平の『支那観』を読む」。「宮崎正弘、内田良平研究会編著」である。
この本は、内田良平(明治7年2月11日生まれ、昭和12年7月26日没)
の今に通じる国家戦略書である「支那観」を現在に甦らせ、現在日本の問題とし
ての対中理解を矯正しようという問題意識から出版されたものである。
支那・中国に関して、「同じ轍を踏むなかれ」、というのが内田が現在に投げ
かける警告である。
内田良平は、日清戦争後にウラジオストックに柔道場を開設して満州シベリア
の情報収集に取り組み、明治30年に単独でシベリアを横断してロシアの内情を
収集したあと「黒龍会」を結成した。そして、我が国の対露、対支、対アジア政
策について提言を続けた。
彼が活動を始めた時代は、東洋また「大亜細亜」を欧米列強つまり白人種の桎
梏から解放しようという興亜の情念が日本に充満していた。従って、彼も当初は
、終生孫文を支援した宮崎滔天らとともに中国革命を目指す孫文を支援している
。
この時代の日本人の教養は、幼児から習ってきた漢籍を基本としている。従っ
て、日本人の中国観は、漢籍から受けた思い込みと先入観に満ちたものである。
そして、多くの青年は、日本と中国を同文同種として共栄する興亜を夢見て孫文
や中国革命を支援した。
しかし、この日本人の思いは一方的思い込みであり、歴史を見れば明らかなよ
うに、日本人から命・財産そして革命資金まで援助された孫文およびその同志は
、日本人に何ら恩義を感じることなく、共産主義者と提携して日本を裏切るので
ある。そして「中国革命」は、排日・反日を基本路線として掲げることにより、
最も露骨に長期間にわたって中国を侵略していた欧米の支援を受けながら進行す
ることになる。この流れの中で、反日の中国は、日米対立を煽り、日米戦争の原
因を形成してゆくことになる。
明治維新以降の日本と日本人の対中支援と対中関わりは、概ね以上のようなプ
ロセスを辿って行くのであるが、この課程の中で「内田良平は、日本人の中国観
に最初の警鐘を鳴らした男と言ってよい」と小田内陽太氏は本書で書いている。
以上、「シナ人とは何か」という本を紹介したのであるが、「正論」1月号に
おいて、金美齢さんも「私はなぜ日本国民となったか」という一文の中に、「日
本人は救いのないほどに中国人に対して甘い幻想を抱いている」、として、「そ
れを(中国は世界の中心であるという信仰)、受容しない限り成り立たない『日
中友好』に日本人はいつまで幻想を抱き続けるのか」と書かれている。
してみれば、我が国は、100年前に内田良平が警告した、同じ轍を踏むこと
になるではないか。
そこで対中関係において、我が国が同じ轍を踏まないためにも、私が今まで読
んだ本の中から得た対中理解と私の見聞を、おおよそ年代順に、書いておきたい
。
まことに我が国は、次に書く対中観察をもとに国策を練れば誤りなきを期せた
のにと悔やまれる。
「東アジア共同体」の鳩山内閣の総理をはじめとする面々と定期的に大勢の国会
議員を引き連れて北京に伺候する与党幹事長には、既に薬が総身に廻っているの
で言っても無駄だが、最重要な国策是正のためには、是非知っておかねばならな
い対中認識である。
1、明治12年、情報将校福島安正中佐の清国偵察報告書「隣邦兵備略」(祥伝
社、「日本を護った軍人の物語」岡田幹彦著より引用)
「清国の一大弱点は、公然たる賄賂の横行であり、これが百害の根源をなしてい
る。しかし、清国人はそれを少しも反省していない。上は皇帝、大臣より、下は
一兵卒まで官品の横領、横流しを平然と行い、贈収賄をやらない者は1人もいな
い。これは、清国のみならずお雷より一貫して変わらない歴代支那の不治の病で
ある。このような国は日本がともに手を取ってゆける相手ではありえない」
なお、福島安正中佐は、帝国陸軍の情報将校の草分けであり、日露戦争に備え
て単騎でヨーロッパからシベリアを横断して情報を収集している。彼は、英独仏
露支の5カ国語を習得し、会話だけならさらに数カ国語を操った欧米世界のなか
でも突出した人物であり観察眼は確かである。
2、明治18年、福沢諭吉「脱亜論」
有名なのでご承知の通り。シナや朝鮮と兄弟としてともに歩もうと思っても無
理だ。彼らとは袂を分かち、欧米諸国が彼らに接する基準で我もシナや朝鮮に接
しよう、というもの。
3、大正2年、内田良平の「支那観」、「シナ人とは何か」より引用
支那の社会は歴史上、読書社会と遊民社会と農商工社会の3つに分かれる。
!)「読書社会」(政治社会、支配層)
堂々たる政治家を自任する者にして、美辞麗句とは裏腹に、振る舞いは汚れ、
彼らの心事が巷の守銭奴と何ら変わらないのは昔のままである。
!)「遊民社会」(豪侠、馬賊、土匪、蛇頭、普通社会の上に立ち支配層の消長を
決する立場にいる)
財を盗み、酒を飲み、美肉を食らう以外に何の関心もない、残忍で欲深い連中
。
食人種。黄金万能の国の住人。詐欺を義務と思っている連中。金銭への執着は
水火をも辞さないほど猛烈。戦闘では卑怯な者が、弾丸雨飛の中に飛び込み戦死
者の懐中を漁る。
!)「農商工社会」(普通社会、農民、商工業者)
「井を穿って飲み、田を耕して食らう。帝力我に於いて何かあらん」という最
大多数。
ただ個人の利益を追い求めて生活し、個人の生活が安全なら、君主がいようが
いまいが、国土を異民族にとられようがどうなろうが、全く関知しない階層。
4、大正7年、魯迅「狂人日記」
「妹は兄貴に食われた。お袋は知っていたろうか。・・・考えられなくなった。
4千年来、絶えず人間を食ってきたところ、そこにおれも、長年暮らしてきたん
だということが。
今日やっと分かった。兄貴が家を管理しているときに妹は死んだ。やつがこっ
そり料理に混ぜて、おれたちにも食わせなかったとはいえない。おれは知らぬま
に、妹の肉を食わせられなかったとはいえん。いま番がおれにまわってきて・・
・ 4千年の食人の歴史をもつおれ。はじめはわからなかったが、いまわかった
。真実の人間の得がたさ。
人間を食ったことのない子どもは、まだいるかしらん。子どもを救え・・・」
以上、今手元にある本から紹介できた記述。
内田良平の中国の支配層に関する描写とそっくりだったのが、2年前、衆議院
本会議場で演説した温家宝の態度だった。
彼は実に、「堂々たる政治家を自任する」風情であった。時に演説を止めて右
左を見渡しながら、肘を張って胸の前で手のひらを上下(左右ではない)に打ち
鳴らして拍手を促すのである。
すると、我が議員諸侯が揃って拍手を始めた。アホらしい光景であった。馬鹿
、天安門と違うぞ、と野次ろうかと思った。もっとも、外務大臣麻生太郎さんだ
けは腕を組んだままで、拍手していなかった。
私には、場所をわきまえない温家宝の態度が滑稽に見えた。内田良平曰くの「
美辞麗句とは裏腹に、巷の守銭奴と何ら変わらない」と見えた。彼の演説のすぐ
後で、あれは華僑の番頭の演説だったと誰かに説明したのを覚えている。
次に、今は亡き加藤三之輔翁から聴いたシナ社会のことを紹介しておきたい。
加藤翁は、戦前に青雲の志をもって中国で事業を興した人である。最晩年に北九
州の自宅で話してくれた。加藤翁は、シナ社会の実態を体験で知り尽くしておら
れた。
「初めて中国に着いた頃、ある日街に出ると、苦力がよろめいて橋から川に落ち
た。すると子供たちが流される苦力に石を投げ始めた。周りの大人たちも笑って
眺めていた。おぼれている苦力を誰も助けようとせず、石を投げる子どもを叱る
親もなかった。」
「ある日、近所の人から見物に行こうと誘われた。何があるのかと尋ねると、あ
る大地主の家で厄払いの行事がある。それは生まれたての赤ん坊を生きたまま犬
に食わして厄払いする。犬が赤ん坊を食うところを見に行こうという。その時、
何という国に来たんだと思った」
加藤三之輔翁から聴いた中国の事例は、多いが、今は2つをご紹介するに留め
ておきたい。中国社会と日本社会の違いが実感できればいいからである。
中国と日本は、明治の大アジア主義の青年や、平成の日中友愛・東アジア共同
体の未熟児が思っているように、一衣帯水、同文同種で近い国だろうか。
全く違う。シナと日本は、文化と文明に於いて、日本と欧州の距離よりも、ま
だ離れている。両者は異質だ。
しかしながら、明治も今も、日本人の中国観は、同文同種で日中友好に流され
る。だから国策を誤る。温家宝が来たときの衆議院本会議場の雰囲気もまさに流
されていたのである。放置すれば、再び取り返しがつかない事態に落ち込む。
この原因は、中国人の巧みな詐術もあるが、多くは日本人自身が勝手に思い込
んだ間違った中国観にある。
金美齢さんが警告するように、台湾が国民党の馬英九政権のもとで中国のブラ
ックホールに吸い込まれるポイント・オブ・ノーリターンを過ぎたならば、今こ
そ日本が最前線に立ったのであるから、福島安正中佐以来の正確な支那の実態把
握に立ち返って、国民的規模で我が国の、アジア外交という国家戦略を練り直す
ことが、急務である。我が国家の存亡に関わる。
中国共産党の実態・・・福島中佐の報告と同じ
人民解放軍の実態・・・内田良平の豪侠、馬賊、土匪に近づく
13億の人民の実態・・・農民、出稼ぎ、盲流
このそれぞれを我が国家の情報収集力の総力を挙げて調べ治すことが急務であ
る。