【台湾人より】戦後世代の台湾人からみた靖国問題

【台湾人より】戦後世代の台湾人からみた靖国問題

【靖国と日本人の心】より 正論創刊30年記念臨時増刊 平成15年7月発行
              
                      林建良(台湾の声 編集長)
 一、八月の風物詩、靖国神社参拝問題

 毎年八月に入ると、日本特有の社会現象を目にする。日本国総理大臣の靖国神社参拝の是非をめぐる大議論である。私はこの八月の風物詩を、いつも不思議に感じながら眺めてきた。まず、旗色鮮明な参拝賛成派と反対派のマスコミ陣営が議論の先導役となり、15日の終戦記念日が近づくにつれ、議論も白熱化し、最後に中国が参拝反対派の援軍として参戦してくる。

 中国は、歴史問題と戦争責任という定番のカードを使い、高圧的な態度で日本に説教する。15日をすぎると、今度は日本の外交関係者が「関係修復」のために中国の機嫌を伺い、そしてあらゆる名目で援助が中国に巻き上げられる。この騒ぎは昭和60年8月15日、中曽根総理が靖国神社を公式参拝して以来、毎年繰り返されてきた。参拝反対派の論理がよほど日本国民に支持されているか、それとも中国がよほど怖いのか、参拝賛成派は負け続けており、日本の総理大臣は8月15日の靖国神社参拝を避けている。

 私は日本に来るまで、靖国神社の名前は一度か二度新聞で見ただけで、詳しいことは全く知らなかった。日本のマスコミはよく、近隣諸国に迷惑をかけるとか、植民地支配の苦しみを受けた国に苦痛を与えるなどと言って、総理の靖国神社参拝問題に反対する。日本のかつての植民地だった台湾で生を享けた台湾人(台湾にいる中国人は除く)は、少なくとも靖国神社のことで困ったことも苦痛を感じたこともない。日本の総理大臣が国のために戦死した人々の霊が祀られている靖国神社に参拝することがなぜ問題になるのかは、戦後世代の台湾人として、理解に苦しむ。

 世界のどの国にも国のために戦死した人々の慰霊施設があり、その国のリーダーが参拝して、霊を慰めることは必要不可欠の公務とされている。しかし、日本では、政教分離の問題、A級戦犯の合祀問題や軍国主義復活などの理屈で延々と議論が続いている。さすがに平和国家日本だと、台湾人の私は感心してしまう。なぜなら、日本以外の国でこんな理屈を並べたら、国民の怒りを買うに違いないからである。

 古今東西を問わず、宗教的な色彩が帯びている国の公式行事は少なくない。例えば、クリスチャンであるかどうかに関係なく、アメリカの大統領は就任式で聖書を手にして宣誓する。しかし、憲法に記載されているか否かは別として、アメリカも政教分離の国なのだ。実際、政教分離条文の入っている日本国憲法を作ったのは、他でもなくアメリカなのだ。一国の指導者たるものは、国のために亡くなった人々の霊を慰めるのに、伝統文化に合う宗教的な色彩が帯びていることで批判されたら、それを一蹴する気概を持って欲しいものだ。

 A級戦犯の合祀が問題になるのもおかしい話だ。A級戦犯を決めたのは、日本ではなく戦勝国のみで構成された東京裁判なのだ。戦勝国が敗戦国を裁くのだから、敵国の軍事責任者を戦犯として処罰したのは当然の結末であろう。A級戦犯に問われたのは、戦争を発動した責任者である。しかし、最近、アメリカが発動したイラク戦争に言及するまでもなく、有史以来、戦争は紛争解決と国益を守る一つの手段として公認されてきた。もし、戦争を発動しただけで罪になるのなら、欧米諸国にもかなりのA級戦犯が存在することになる。

A級戦犯とされた人々に責任があるとしたら、負ける戦争を始めたことであろう。日本国民がその責任を問うのならわかるが、戦勝国が彼等を裁くのは筋違いである。日本のA級戦犯ではないのだから、日本のために存在する慰霊施設のならA級戦犯問題は最初から存在しないはずだ。

 中国が靖国神社参拝を戦争美化と軍国主義の復活だと批判するのは、日本からより多くの援助をふんだくるための言いがかりにすぎない。こんな理屈が通るなら、中国を含めた戦死者の慰霊施設を持つ国はすべて戦争美化と軍国主義の国ということになる。しかし、靖国神社参拝イコール軍国主義復活という中国の意図的宣伝に、日本国内にも同調者がいる。これは日本社会の寛容性を示しているが、日本を守ろうとする意志すら許そうとしない中国の謀略に加担することにもなるのだ。

 国を愛せない人々には沢山の理屈が必要であるが、国を愛する人々に理屈はいらない。それは家族を愛するのと同様に、こころの奥から自然に湧き出る愛情だからである。靖国神社参拝は、国のために命を捧げた戦死者に敬意を表すごく自然な愛情表現であり、一国の総理がそれを行わないとしたら、無責任と言うべきであろう。

二、靖国参拝問題、中国の絶好の外交カード

 靖国参拝問題を中国に外交カードとして与えたのは、他ならぬ日本自身である。
 中国が8月15日に行う戦勝記念行事は、反日キャンペーンそのもの。言論の自由のない中国であるが、反日キャンペーンならいくら過激な言葉を使って日本をののしっても許される。それにうろたえる日本政府は、中国の絶好のカモになっている。靖国問題ほど、使いやすいカードはない。いくら無礼な態度で日本を攻撃しても、日本政府は謝るか弁解するだけで反撃はしない。なんの犠牲も払わずに外交得点を稼げるのだから、中国にとってこんなうまい話しはない。

更におかしいことに、中国に靖国神社はダメだと言われた日本政府は、別に慰霊施設を造ろうと真剣に検討している。なぜ、自国の魂のあり方について中国に伺いを立てるのか、台湾人の私にはさっぱりわからない。しかし、それで中国が満足すると思うなら、日本の指導者はあまりにもナイーブすぎる。中国にしてみれば、靖国問題はあくまでも外交カードの一枚にすぎない。このカードが有効である限り中国は切り続ける。
有効でなくなったら、別のカードを探す。これが外交というものなの。

このカードを無効にする方法はじつに簡単で、無視するだけでいいのである。反日キャンペーンをやった分だけ中国に対する援助を減らせば、もっと効果的だ。日本は得をするだけで、困るのは中国なのだ。もちろん老獪な中国は、そのことを誰よりも知っているはずである。だからこそ、2001年の夏に田中真紀子外相に唐家セン中国外相が小泉総理の靖国神社参拝をやめろと「ゲンメイ」したのである。

これが効いたのか、小泉総理は自分の公約である8月15日の参拝を繰り上げ、13日の参拝となった。小泉総理は屈服し例年のように中国の勝利で終わったのだ。
 中国は日本の軍国主義を批判するが、日本には軍国主義の影さえ見当たらず、中国こそが軍国主義国家なのだ。中国共産党政権は銃口から生まれた政権だ、と誇らし気に自認し、軍歌の「義勇軍行進曲」を国歌に定めているのである。

 更に、毎年二桁増加する軍事予算と近隣諸国に対する威嚇行為は、まさに中国の覇権体質の現れである。現に、中国は第二次世界大戦後、18回も対外戦争を起こしている。1979年2月に中国が発動したベトナムへの「処罰戦争」では雲南省国境に近いベトナムの村を焼き払い、非武装の村民を屠殺した。

 これはベトナムに教訓を与えるための戦争だと中国は主張したが、実は期限切れの武器の在庫を一掃するために発動した戦争だった、と戦争に参加した元人民軍幹部が私に話した。そのせいか、武器の故障と不発弾が多く、まともにベトナム軍と戦えなかったと言う。そのこともあって、中国軍はベトナムの村民に当たり散らし、屠殺したのであろう。この中国の戦争犯罪は不問に付されたままである。

 1996年3月、中国が台湾に向けてミサイル演習をした時、中国の軍指導者は「アメリカが動くなら、ロスアンジェルスまで核ミサイルを飛ばして、めちゃくちゃにしてやる(中国語:打得希巴爛)」と、下品きわまりないことばでアメリカを牽制した。しかし、アメリカは動ぜず、二空母艦隊を台湾海峡に派遣して、台湾を守る強い意志を示した。すると中国は、しっぽを巻いて退いたのである。
これが中国なのだ。一歩譲れば、十歩踏み込んできて取れるものを根こそぎ取っていく。弱いものは徹底的に蹂躙するが、アメリカのように強い姿勢で臨まれると、ささっと逃げる。靖国問題も、この中国人の本質を見抜かない限り、中国に利用され続けるであろう。

三、台湾人と靖国神社

 靖国神社に、日本のために戦死した台湾人の英霊が2万7千柱あまりが祀られている。しかし、小泉首相の靖国神社参拝で精神的苦痛を受け、それはまた違憲であるとして、台湾の原住民枠で選出された国会議員の高金素梅氏と彼女に同調する日本人らが、首相と国に損害賠償を求める訴訟を平成15年2月17日、大阪地裁に起こした。

 親日的と思われている台湾人が靖国問題で訴訟を起こしたことは、親台湾的な日本人を落胆させたに違いない。しかし、高金素梅氏は靖国神社に祀られている戦死者の遺族でもなければ、台湾人意識を持ち合わせている人間でもない。彼女の母親は台湾中部のタイヤル族原住民であるが、父親は戦後台湾に渡った中国人退役軍人である。歴史に翻弄された被害者とも言える中国人退役軍人は、台湾人に「老芋仔」(老いぼれ中国人)と呼ばれ、台湾社会では浮いている存在なのだ。そのため、人生の大半を台湾で過ごしながらも彼等は中国人意識が強く、彼等の子供たちも台湾人としての意識は薄い。

 高金素梅氏は国会議員になる前、芸能人としてすでに全国的に有名になっていたが、その頃の彼女は原住民出身であることを隠して自分は漢民族で中国人だと主張していた。彼女と連携している政治団体は台湾内部の親中国勢力であり、パフォーマンスに長けた彼女は台湾の少数民族の代弁者に仕立て上げられたのである。彼等にとって、高金素梅氏を利用して靖国問題で攻撃をかけることは、大きな話題を呼ぶと同時に日本と台湾を離間させる一石二鳥の戦術でもあるのだ。

「遺族でもない高金素梅氏が訴訟を起こすのはおかしい」と、毎年靖国神社を参拝している元高砂義勇隊の隊員は憤慨しているが、彼女は親中反日勢力に動かされている一つのコマにすぎず、高金素梅氏は戦後世代の台湾人を代表しているわけではない。戦後世代の台湾人のほとんどは、靖国神社参拝問題を日本の内政問題と見ているし、それ以上の関心は持っていないのが実情だ。靖国問題で騒いでいるのは、中国と繋がっている一握りの政治勢力にすぎないのである。

 日本植民地時代を経験していない戦後生まれの高金素梅氏が、日本の植民地統治によって苦痛を与えられたと主張しているのに対して、それを経験した台湾人の大半は親日派であり、靖国神社に台湾人の英霊が祀られていることを誇りに思っている。司馬遼太郎氏の『台湾紀行』に「老台北」として登場している蔡焜燦さんは、著書『台湾人と日本精神』に、靖国神社についてこう書いている。

「加えて、その靖国神社の神門が、実は台湾の阿里山の桧で作られていることも、台湾人と日本人の魂を結びつける一助となり、いまでも桜の季節には多くの台湾人が靖国神社を訪れ、両国の英霊に祈りを捧げていることをここで紹介しておきたい。
毎春、満開の桜が靖国神社に咲き誇るとき、かつてともに戦った台湾人元日本兵たちが「同期の桜を歌う会」の壇上で涙を浮かべて放吟する「台湾軍の歌」に暖かい拍手を送って頂きたいものである。」これこそが、その時代を経験してきた台湾人の生の声なのだ。

 もっとも台湾人を代表する資格のある人は、「台湾の父」として敬愛されている李登輝前総統以外にない。彼は最近出版された著書『武士道解題・ノーブレス・オブリージュとは』の中で、靖国神社参拝問題についてこう述べている。

「2001年の夏、小泉純一郎首相が靖国神社に参拝しました。
 就任当時から靖国参拝を公言していたのですが、結局反対勢力との妥協点で八月十三日という中途半端な日付を選びました。このとき私は、小泉首相の靖国神社参拝は当然のこととしてこれを支持する発言をし、それが日本の週刊誌に報じられています。ところが、2002年には、小泉首相は春に突然参拝を行い、八月には靖国神社を訪れませんでした。戦犯が合祀されているといった事情があるのはわかりますが、一国の首相が何もこそこそとすることはないのではないでしょうか。

 戦死した将兵を祀る施設は台湾にもあります。忠烈祠という廟があって、政府の高官は春と秋にここに参拝するしきりがあるのです。戦争で亡くなった人を背を向けるようなら、その政治指導者はどうかしていると言えるでしょうし、国にはそれぞれしきたりがあるのです。昔のことにとらわれるあまり、中国や韓国の人が日本の問題にくちばしをはさむのは、間違いだと思います。私自身はクリスチャンですが、日本人として戦死した兄が祀られている靖国人神社には、当然参拝したいという気持ちを持ってきました。」

 李登輝前総統の兄上李登欽氏(日本名:岩里武則)は、自ら志願して日本のためにフィリピンで戦死した元日本兵台湾人である。李登輝前総統は、兄上が靖国神社に祀られていることを誇りに思い、靖国神社に参拝したいのだ。この気持ちこそが、本当の台湾人遺族の気持ちであろう。

四、靖国、日本再生の原動力

 戦後の日本社会は、平和を絶対善、戦争を絶対悪としている。しかし、平和を守れと叫びながら、国を守ろうとしない平和は、他国から恵んでもらう奴隷の平和でしかない。世界的なテロの横行を見ても、平和は欲しいが、平和を守るための力はいらない、という理屈が非現実であることは明白であろう。それは、健康は欲しいが、体を鍛えるのはいやだ、と言っているようなものだ。自分で自国を守る意志がなければ、他国に平和を守ってもらう属国となる以外に道はない。親中反日派が靖国参拝に反対するのは、日本の無力化を望んでいるからなのだ。

これは、日本民族の魂をつぶして、日本を滅ぼそうとする陰謀に違いない。実際、中国の李鵬元首相はオーストラリアの首相に「日本は後30年でこの地上から消えていく」と言った。

 ある青少年相手のアンケート調査によると、日本に外敵が攻めてきたらどうするかとの質問に対し、降参するか逃げるかという回答が圧倒的に多かったそうである。日本の将来を担っていく若者の現状を見ると、親中反日派の陰謀は達成されつつあるのだ。靖国神社が国を守る意志の象徴の一つである事は、賛成派も反対派も認めてい る。靖国神社への参拝は、日本を守る意志の表現だから、反日国は日本の首相の参拝に反対するのだ。日本の首相なら、「不戦の決意で参拝する」などと誤魔化さないで、「国を守る決意で参拝する」と、堂々と宣言すべきであろう。それが国の安全を守る責任者としてのあるべき姿勢なのだ。指導者と国民に自国を守る強い意志があればこそ、国民は真の平和を享受し、幸せに暮らせるのである。

 国民の代表である首相が、英霊に敬意を表し、公式参拝することは、国民全体の志気を高め、平和と安全に貢献することになるのだ。戦争を阻止できるのは、不戦の決意ではなく、国を守るためには命を投げ出すことも辞さない国民の強固な決意である。総理が堂々と靖国神社を参拝する気概が、日本の平和と安全に貢献することになるのだ。

 もともと、日本は尊敬できる気概のある国であった。一般的に親日と言われている台湾人の親日感情の原点も、「日本精神」に対する憧れにある。台湾人が名付けた「日本精神」(ジッブンチェンシン)とは、私利より公益を優先する道徳感、自分たちの国家と伝統を守る気概なのである。しかし、残念なことに、台湾人が憧れている「日本精神」は、戦後の日本では失われたままになっている。

それまで善としてきた価値観は悪となり、伝統価値観の崩壊によって、日本人のアイデンティティも失われた。そのために日本は、虚無感の漂う無気力な国になってしまった。総理の靖国神社公式参拝が論争の的になったことは、日本人のアイデンティティが問題にされていることの現れでもある。靖国神社参拝がを他人事のように傍観している一般の日本国民のアイデンティティも問われているのだ。

 国民の多くが自国の魂に無関心だから、親中反日勢力が跋扈することにもなるのである。反日勢力が執拗に靖国を攻撃するのは、英霊の魂が宿る靖国が日本精神を再生させる力を秘めていることを、彼等が直感的に知っているからであろう。ずばり言えば、日本再建の鍵は靖国にあるのだ。靖国は国を守る気概の象徴であると同時に、日本民族再生のエネルギーの源にもなるからである。

 日本以外に、国を守る国民の意思の象徴たる施設への参拝が、論争の的になっている国が存在するであろうか。どの国でも、このような問題は論争の対象にはならない。国を守る必要があるかどうかという議論自体がナンセンスだからである。

 国を守ることは、家庭を守ることと同じように、議論はいらないのだ。反日勢力の議論に乗ることは、靖国の原点を見失うことにもなりかねない。靖国神社は議論するための存在ではなく、参拝するための存在なのだ。論争はやめて、靖国神社参拝を国民運動として展開する方が、はるかに有益であろう。すべての政治家にも靖国参拝を要求し、参拝しない政治家に対しては落選運動を起こして、二度と当選できないようにする。国民がみな参拝するようになれば、靖国神社は日本を救う力となり、日本は再生するであろう。

 強大な経済力を持つ自由民主国家の日本が、自信とアイデンティティを回復して、自国と東アジアの平和と安全を守る決意を持つようになれば、大いに世界平和に貢献することになる。一日も早く日本人が民族の魂を取り戻して、日本が世界に信頼される強力的な国家になることを、日本の友人として、心から願ってやまない。