2015.8.17 産経新聞
古森義久
いまの日本では「平和」という言葉が暴力的な効果をも発揮するようである。より正確に述べるならば、「平和」が日本の国民や国家を守ろうとする努力を破壊する政治的武器に使われる、という印象なのだ。
朝日新聞などが扇動する安保法制関連法案への反対運動での「(同法案成立は)この国を再び戦争に巻き込む」という類の主張が例証である。同法案は平和を崩し、戦争を求めるのだという虚構の非難が放たれる。集団的自衛権解禁への賛成側は平和の敵と断じられる。個々の政治家の片言隻句を軍国主義とか好戦主義と攻撃する乱暴さは暴力的という表現まで連想させる。
一方、原爆と終戦の8月の日本では平和は国民の心から真に祈られるといえよう。平和の恩恵と戦争の惨禍を語ることは貴重である。だがその種の言葉が「日本の平和主義」という域まで進むとなると、その「平和」を政策として点検することも欠かせなくなる。
日本でとくに8月に語られる「平和」は単に「戦争のない状態」を指すといえよう。平和の内容が決して論じられないからだ。戦争さえなければ、他国に支配された「奴隷の平和」でもよいのか。自由も人権も民主主義もない平和でもよいのか。
この点で忘れられないのは40年前、ベトナム戦争の終わりに目撃した「独立と自由より貴いものはない」という民族独立闘争の標語だった。独立や自由のためには平和も犠牲にして戦争をする、という意味のベトナム共産党のホー・チ・ミン主席の言葉だった。
米国の歴代政権が国家安全保障の究極の目標として「自由を伴う平和」と条件をつけるのも同じ趣旨である。オバマ大統領もノーベル平和賞の受賞演説で「平和とは単に軍事衝突がない状態ではなく、個人の固有の権利と尊厳に基づかねばならない」と述べた。
単に戦争のない状態の平和を守るには絶対に確実な方法がある。外部からの軍事力の威嚇や攻撃にすぐ降伏することだ。相手の要求に従えば、この平和は保たれる。尖閣諸島も中国に提供すれば、戦争の危険は去るわけだ。
だが安保法制反対派もここまでは語らない。そのかわり戦争には侵略と自衛の区別をつけず、すべて邪悪として排する。日本は現行憲法でも自衛戦争の権利は有しているのに、反対派は日本の自衛のための防衛力や抑止力の整備さえも認めないようなのだ。
反対派が悪だとする日本の「植民地支配」や「侵略」は米国の対日戦争で除去された。その手段はまさに戦争だった。だから米国は、そして中国も、あの戦争は正当で必要だったと宣言する。オバマ大統領も前記演説で「正義の戦争は存在する」と強調していた。
8月の米国では対日戦争の勝利が必ず祝われる。日本にとっては悲しいが「原爆投下に神への感謝を」(大手米紙の今年8月5日の論評)という主張さえ出る。どんな戦争も否定しようとする日本の一部の認識が、国際的にいかに異端かがわかるだろう。それでも安保法制法案は自衛ではない戦争はきわめて明確に排している。だが、その趣旨に賛成する側はあたかも平和自体に反対するかのようなぬれぎぬを着せられるのだ。(ワシントン駐在客員特派員)