【傳田晴久の臺灣通信】「飛虎将軍廟」

【傳田晴久の臺灣通信】「飛虎将軍廟」

           傳田晴久

1. はじめに
  
玉井をご案内してくれた惠雅さんが今度は「飛虎将軍廟」に連れて行ってくれました。この飛虎将軍廟は私が台南に住み着くきっかけを作ってくれた廟でありますが、それは私的なこと。此の廟は日本と台湾の絆を象徴する廟でもありますので、今回の台湾通信でご紹介したいと思います(ご存知の方も多いかと思いますが・・・・)。

2. 飛虎将軍廟とは
 
台湾に関心をお持ちの方でもこの飛虎将軍廟(正式には「鎮安堂・飛虎将軍」というようです)をご存知ない方もおられましょう。廟のパンフレットに詳しく紹介されていますので、以下簡単に引用しながら、ご紹介いたします。

飛虎将軍廟は台南市の西北5キロほどにある安南区にあります。私が住んでいるアパートからは距離で7、8キロ先でしょうか。ご祭神は元海軍航空隊の杉浦茂峰少尉で、日本人です。日本人が台南の廟に神様として祀られているのです。台湾には、この飛虎将軍廟の他に嘉義市の富安宮に「義愛公」として祀られている森川清治郎巡査が居られますし、苗栗県の獅頭山勧化堂に祀られている廣枝音右衛門警部が居られます。

神様となられた杉浦少尉(戦死時は兵曹長)は大東亜戦争末期の1944年10月12日、零戦に乗り台南上空で米軍戦闘機を迎え撃つも、被弾した。墜落のさなか眼下に台湾住民がたくさん暮らす部落が目に入ったのか、急遽操縦桿を引き、機首を上げ、飛行機は人里離れた畑や養殖池のある方向に向かったが、空中爆発を起こし墜落した。パイロットはパラシュートで脱出したが、敵機グラマンの機銃を受け、墜落、戦死された。後に遺体の軍靴に記された名前から「杉浦茂峰」と判明した。

戦後何年かしてから、飛行機が墜落したあたりで深夜、白衣の人物が徘徊する姿が頻繁に見受けられた。不審に、不安に思った住民が、近くの海尾朝皇宮の神様「保生大帝」にお尋ねしたら、戦時中の戦死者の亡霊と言う事であった。部落の住民は、この亡霊はあの時のパイロット、我々の部落を戦火から救うために自らの命を犠牲にされたパイロットであろうと判断し、感謝の念を込めた祠を立てることを決した。最初は小さな祠であったが、その後現在のような立派な廟になり、廟の正面に「鎮安堂・飛虎将軍」という額が掲げられています。「飛虎」は戦闘機の意味です。

廟の正殿にはご本尊「杉浦茂峰」の神像、両側に分身二体が奉安されている。此の分身が面白い。神様の霊験はあらたかで、「商売繁盛」、「宝くじも当たる」と言われているそうです。したがってご本尊は引っ張りだこ、此の分身は乞われると本尊の代理としてお願いした信者の元にお出ましになるという。
廟では毎朝夕の二回煙草を三本点火して神様に捧げ、朝には日本の国歌「君が代」、夕べには軍歌「海ゆかば」を流す。こうして付近の住民の皆様が、昔部落の惨劇を救い自らは戦死された飛行士の御霊を、今度は自分達で
お守りしているのです。

3. 周義泰さんとの出会い

 飛虎将軍廟を訪れ、こちらが日本人とわかると、何時の間にか日本語を話せる方が現れて、いろいろ説明してくださる。私が初めて飛虎将軍廟を訪れたのは2001年の7月に「日本精神溢れる台湾を訪ねて」というツアーに参加した時でしたが、その年の12月1日に行われた第五回立法院選挙の応援ツアーに参加した後、一人で飛虎将軍廟を訪れました。その時、突然一人のお年寄りの方が現れて、お話しする機会がありました。この方が、後に私が台南に住んでみようと思うきっかけを作ってくださった周義泰さんでした。

周さんは日本語が大変お上手で、昔九州で(ご専門は忘れてしまいましたが)学生を教えておられたとの事でした。この時の出会いをきっかけに、周さんとはその後何回か台南でお目に掛り、或る時は食事をご一緒したり、お知り合いの自動車のブレーキを製造販売しておられる工場経営者の方(鄭壽龍さん)を紹介してくれたりしました。

鄭さんは後に、工場経営に関連して、品質管理、コスト低減、技術者紹介などいろいろなご相談を持ち掛けて
くださいました。或る時、品質問題だったと思いますが、
私の友人の技術者を連れて工場を見せていただいたことがありましたが、その時台南で大変面白い体験をしました。工場の主だった方々とのお話は周さんが通訳してくださいました。お話が終わってから食事をご馳走になりましたが、その後、社長の鄭さんは私たちをあるところに連れて行って呉れました。小さな工場の片隅に数人の男女がたむろし、ビールを飲んだり、マージャンをやったりしている。我々を紹介してくれた後、ビールを飲んだり、おかずをつまんだり、雑談が始まりました。ある方は出版社を経営しているというし、別な方はプレス工場を持っているとか、要するに直接仕事に関係するとは思えない方々が寄り集まっているのでした。大変ざっくばらんな「異業種交流」の場でした。私も友人技術者も呑兵衛でしたので、その場がすっかり気に入ってしまいました。

皆さんは残念ながら日本語はあまりお話にならず、ほとんどが台湾語でした。しかし、非常に暖かい雰囲気で、私はそのような場所に案内してくれた周さん、鄭さんの心遣いに大いに感謝したものでした。ひょっとすると飛虎将軍のお引き合わせかもしれません。飲み会というか、交流会というか、夜遅くまで続きましたが、帰るときには、もちろん車でホテルまで送っていただきましたが、途中でお茶やお酒をお土産に頂きました。

其の後、色々の経緯があり、私は台湾に住みたいと思うようになりました。台湾に住むについては北京語ないし台湾語が必須と思い、昔大学の第二外国語で少しかじった北京語を勉強しなおそうと思い立ちました。台北で学ぶか、高雄にするか、台南にするか、いろいろ調べましたが、やはり周さんが居られる台南にしようと思い、準備を始めました。所があろうことか、しばらくして鄭さんから周さんの訃報が入り、大変吃驚しました。

北京語を学ぶ学校として、台南にある成功大学華語中心を選択し、その下調べに台南に出向いた時、真っ先に鄭さんにお願いして周さんの墓前に参りました。飛虎将軍は私と周さんを結び付けてくれ、周さんは私と台南を結び付けてくれ、さらに台南は私に多くの友人を結び付けて呉れました。飛虎将軍廟は「商売繁盛」、「宝くじ当選」と言う素晴らしいご利益があるそうですが、私にとりましては人と人とを結びつける有難い神様でもありました。

4. 新聞報道によれば・・・・

インターネットで関連記事を探していましたら、産経新聞(2007/05/11)のコラム「台湾有情 廟に響く君が代」という文章が見つかりました。記事は杉浦少尉戦死の様子並びに廟建立のいきさつを紹介した後、「管理担当の曹芳さん(76)によれば、毎朝5時、村人が君が代を斉唱する。ところが、この君が代のCDが今年初め、連日の酷使に耐えきれず、不調になってしまった。『(年間1000人を超す)日本人参拝者の訪問時にも君が代は欠かせない』から、無理もない。これを知った台北在住の日本人駐在員、渡辺崇之氏(34)が先月、廟を訪れ、『日本人の勇気に手を合わせる台湾の人々に感動した。日本人として感謝したい』と新品を寄贈した。実はCDプレーヤーも寿命が近づいている。曹さんはしかし、『杉浦少尉は命をかけ村を守った。今度はわれわれが神となった少尉を守る』と話している。(台北 長谷川周人)」とありました。

ここに紹介されている渡辺さんは、私も所属している台北の「友愛会」のメンバーで、日台交流に汗を流しておられる方です。

5. おわりに

自らの命を顧みずに、村を惨劇から救ってくれた飛行士の恩義に感じ、立派な廟を建立し、毎日のお勤めを欠かさず、しっかりと守ってくださっている台湾の人々、その恩に報いるために毎年千人を超える日本人が参拝するという「飛虎将軍廟」、日台の絆の深さを物語る、有難くも嬉しいお話と思います。もちろん台湾にもいわゆる反日の人もいるでしょうし、日本にも大陸や韓国、朝鮮に媚を売る人もいますが、草の根で日台交流、台日交流の努力を続けている人々もいることは紛れもない事実です。


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