傳田晴久
1. はじめに
台湾通信No.92で友人が送ってくれた記事「土木技術者の本懐」(雑誌「月刊建設」14-10〜14-12掲載、著者は緒方英樹氏)をご紹介させていただきましたが、今回はその後半をお伝えいたします。
2. 台湾のインフラその六(二峰「土川」ダム)
ノンフィクション作家平野久美子さんの著作「水の奇跡を呼んだ男―日本初の環境型ダムを作った鳥居信平」によって今ではよく知られるようになった鳥居信平と地下ダム「二峰「土川」(にほうしゅう)」について、緒方英樹氏は次のように紹介しています。
「八田與一技師が烏山頭ダムを建設した時代に、もう一人の日本人技師が台湾南部の屏東県で地下ダム「二峰「土川」」を建設、現在も地域の20万人市民の生活を支えている事実が解き明かされた。自然環境に配慮した地下ダムの発想が、地球温暖化の深刻な今、新鮮味を帯びて注目されている。」
その技術者・鳥居信平は八田技師と同じ旧制四高(金沢)の出身で、鳥居が卒業した年に八田が入学している。二人とも東京帝大に進み、農業土木を専攻した鳥居は屏東平原に地下ダムを、土木工学を専攻した八田は嘉南平原に烏山頭ダムを建設した。
鳥居は農商務省や徳島県の技師を歴任した後、台湾製糖の水利課長に採用され、サトウキビなどの生産事業に従事したが、彼はサトウキビ生産のために屏東平原の荒れ地に水を引くことが求められた。
水源、土壌などの山地調査の結果、屏東平野の地下を流れる伏流水に着目し、川の干上がる乾季に川床を掘り起こして堰を作り、堰き止めた伏流水を幹線水路3,436mで導こうとした。もともとその土地に住みついている原住民・高砂族の暮らしを損なわないために、彼は原住民の頭目と酒を酌み交わし、原住民たちとの話し合いを繰り返し、狩猟や漁業を生業としてきた先祖伝来の生活習慣を重んじた。工事は毒蛇、マラリアがはびこる地帯であり、難工事であったが、約2年後の1923年に完成した。
ダム完成後、新農地に移住してきた農民に2年から3年の輪作給水法を取り入れた。鳥居が台湾製糖を辞めるまでの25年間に3万ヘクタール以上の農地を開拓、乾季にサトウキビ、雨季に米や芋などの農作物の収穫が格段に増えた。緒方英樹氏は、八田與一は鳥居信平が採りいれた輪作法を研究して、嘉南平原の潅漑事業に展開したとみられると述べている。
3. 台湾のインフラその七(導水路)
緒方英樹氏は金沢の旧制四高から東京帝大に進んだ技師として鳥居信平と八田與一を紹介した後、もう一人の技師・磯田謙雄(のりお)を紹介しています。
磯田謙雄は八田與一より7歳年下ですが、旧制金沢一中、旧制四校、東京帝大土木工学科から台湾総督府へと全く八田と同じ道を歩み、現在も台中市で機能している農業用水路「白冷「土川」(はくれいしゅう)」を設計しました。
台中の新社にある大甲渓の豊富な水を取り入れて豊原地区814haを灌漑するために、磯田は白冷台地と新社大地の高低差を利用して水を挙げる逆サイホンの原理を利用して導水路を建設した。
導水路は全長17キロ弱、22か所のトンネル、14か所の橋で渓谷を空中でつなぐ水路(水管)で構成されており、注目すべきは渓谷を渡す直径1.2mの水管3本に用いられた逆サイホン技術である。その技術は約300年前、江戸の技術者板屋平四郎が金沢の兼六園から金沢城までの約3.3�のトンネルに水管を通して導水した辰巳用水の逆サイホン方式である。この水は、現在も兼六園や金沢市内に送られていると言います。
白冷「土川」は1932年に完成、通水が始まった10月14日には毎年、早朝から集まった地域の老若男女により清掃され、記念式典が行われているということです。
4. 台湾のインフラその八(治水)
台湾のインフラ整備には多くの東京帝大出の土木技師が貢献したが、土木技師でもない西郷菊次郎は宜蘭の治水工事を推進している。彼は外務省の役人で、台湾が日本に割譲された年(1895)に台湾総督府に赴任している。
1897年、宜蘭の庁長(知事)となり、雨季に度々氾濫を起こす宜蘭河の治水に取り掛かる。彼は民の生活様式や習慣を尊重しつつ、インフラ整備を行うが、この考え方は後藤新平や新渡戸稲造よりも先んじていたと言います。湿地帯に堤防を築くという難工事で、巨額の費用がかかるので、住民を説得し、総督府に掛け合い、ようやく1900年に着工した工事は、延べ人数8万人、モッコや天秤棒で土や石を運ぶ人海戦術であり、菊次郎は杖をつきながら監督をしたと言います。
河川工事で洪水対策を施した後、新田開発や道路整備を行い、地域基盤を整えていく。菊次郎の功績をたたえる記念碑が地域の住民によって建立された。
実は、この西郷菊次郎はあの西郷隆盛の子である。緒方英樹氏によると、彼は西郷隆盛が奄美大島に蟄居させられた折に、名門龍家の島娘・愛加那(あいかな)との間に生まれた男子と言う。菊次郎は9歳で西郷家に引き取られたのち、鹿児島、東京で学び、13歳の時に米国へ旅立ち、農業と英語を学ぶ。17歳の時西南の役に従軍、父と共に戦うも負傷、右足を失った。
5. 日本人技師たちの仕事ぶり
緒方英樹氏は連載記事の最後に当時の日本人技師たちの仕事ぶりを、磯田謙雄の回想記に触れ、次のように紹介している。
「磯田が台湾総督府にはじめて赴任した時(1918年)、先輩八田與一は自宅の離れに住まわせた。八田はチフスを患った磯田を寝ずに看病するなど公私にわたって面倒を見たようだ。その八田自身もマラリアに罹って苦しんでいた。
嘉南平原はアルカリ性土壌が炎天下に白い粉を吹き、見渡す限りの荒涼地であったが、その土地を肥沃な大地に変貌させたのは、嘉南大「土川」事業による水の恩恵であった。その工事は、猛暑の中、80余名の日本人技術者が朝の6時から夜の11時まで猛勤務に挑んでいた。八田技師は就寝が午前2時なのに朝の5時半には起床という奮闘を8ヶ月も頑張りとおした、と磯田は後年回想している」と。
6. おわりに
緒方氏が紹介してくださった「日本人技術者による公共事業」が台湾の人々の生活と幸福に寄与したことを証するように、台湾では毎年技術者や工事を記念した行事が行われています。
5月8日は八田與一の命日ですが、その日に台南の烏山頭ダムのほとりにある八田與一とその妻外代樹の墓前に地元住民はもとより多くの人々が集まり、盛大な墓前祭がとり行われています。
台中市では毎年の10月14日に地元住民による白冷「土川」の通水記念式が催され、2012年には80周年を迎えたと言います。
その他、台湾の実業家・許文龍氏は、23年にわたって台湾各地の上下水道を建設した濱野弥四郎の銅像を台南の浄水場に寄贈し、また二峰「土川」ダムを建設した鳥居信平の功績をたたえて銅像を製作し、鳥居の生家がある静岡県袋井市に寄贈しています。
思うに、技術者たちの身命を賭した公共工事の成果と、それに対する感謝の心を持ち続ける台湾の人々の心との共鳴が、まさに「土木技術者の本懐」と言えるでしょう。