「中国ガン・台湾人医師の処方箋」より(林 建良著、並木書房出版)
そもそも中国では、一億人の文盲が存在すると言われている。小学校も予算不足で、子供たちの学校建設費用を募金する「希望工程」と称する寄付金を日本や台湾にも求めているぐらいなのである。鳩山由紀夫が中国の指導者ならともかく、自分の子供の教育費を削ってまで他人に教育を施すほど中国は友愛の国なのか。
膨張し続ける中国の軍事予算と国内治安対策と同じ観点からのソフトパワー拡充は、教育の位置づけではなく、戦略の位置づけなのだ。膨張し続け、拡充し続けることが至上命令となるガン細胞にとって、国民教育の優先順位は一番低いのだ。
毛沢東はかつて「只要核子、不要庫子」(核は欲しいがパンツは要らない)と言った。この言葉は、実は中国ガンの思想を如実に表している。つまり、大量殺戮兵器さえ手に入るなら、どんなに恥ずかしい目にさらされても構わないということだ。中国人はこのぐらい実利的な民族なのだ。
日本人はよく、中国が面子を重んじる国だと勘違いをしている。中国は面子を重んじると思わせるだけで、日本を思い通りに操れるのだ。これがなんのコストも要らない最高の外交手法であろう。核さえ手に入れれば、パンツを穿かなくてもいい中国人の一体どこが面子を重んじているのか!
孔子学院もこのような実利の観点から推進している国策だから、大金を叩いて世界中に作りながらも、自国の小学校建設費用を日本や台湾に寄付を募っているのだ。これが面子を重んじる国のやることはとても思えない。
●孔子は「至聖先師」の名に値する人物なのか
それにしても、「至聖先師」と祭りあげられている孔子だが、本当にその名に値するほどの人物なのだろうか。
蒋介石政権下で中国人化教育を受けた私は、中学から大学まで「春秋」や「論語」などを勉強させられた。高校、大学の入学試験も公務員試験も国費留学試験も不可欠だから、いまでも論語は暗誦できるぐらいだ。
私は中国の古典が好きで、高校時代に「唐詩三百首」と「古文観止」を繰り返して何回も読んだ。しかし、説教調の「論語」はどうしても好きになれなかった。
「論語」を勉強すればするほど、孔子は果たして自分が言っている「礼義」と「仁愛」を持ち合わせているのかと疑いたくなる。官位につくチャンスがあればすぐに飛びつき、権力者に媚びを売る一方、庶民に傲慢な態度で説教している。
「君君、臣臣、父父、子子」は日本でもよく引用されるが、ポスト欲しさで孔子が主君の齊景公に迎合して持ち上げようとする言葉である。「父父、子子」はいいとしても「君君、臣臣」とはただ権力者の提灯持ちではないか。
その孔子が「刑不上大夫、礼不下庶人」(刑罰は貴族に及ばず、礼儀は庶民に及ばない)とも言っている。なんとも卑しい人なのだ。だから「論語」をそのまま鵜呑みにはできない。
中国の歴代の帝王が好んで儒教を顕学にするのも、愚民政策の道具として都合がいいからではないのか。
李登輝氏が孔子の「未知生、焉知死」(未だ生を知らず、焉(いずく)んぞ生を知らん)という人生観を批判したことがある。キリスト教のような永遠の命という概念がないから、現世に執着するのだと批判した。
孔子はその一方で「敬鬼神而遠之、可謂知矣」(鬼神を敬してこれを遠ざく、知と謂うべし)とも言っている。つまり「ご利益は欲しいが、祟られるのはごめんだ」という中国人らしい現実主義そのものなのだ。
当時の台湾は戒厳令が敷かれた時代だったので、儒教に対して懐疑的な態度をとることは許されることではなかった。だから、こうした疑問を解かしてくれる先生もいなかった。
一九八七年に日本に来てから台湾で禁書とされた書物を読み漁り、その中に中国の文学者、巴金の著書もあった。彼が書いた『孔老二罪悪的一生』が私の長年の疑問を解き明かしてくれた。
巴金の描いた孔子とは、悲嘆する日々を送っているへそ曲がりである。孔子は没落した貴族の末裔だが、プライドだけ高く、ひたすら官位を求め続けていた。「有教無類」とは名ばかりで、講学は勢力拡大と学生から金品を巻き上げる手段に過ぎないというのだ。つまり、孔子思想の結晶とされる「論語」とはしょせん彼の恨み言の集大成なのだ。
そもそも、儒教を中心とする中華文化とは、華麗な包装の中で腐臭が漂う汚物のような存在で、権力者が愚民政策に使う道具の一つに過ぎない。中国人自身も中華文化を「満嘴仁義道徳、一肚子男盗女娼」(口では仁義道徳、腹では男盗女娼)とけなしているぐらいだ。
その腐りきった中華文化の代表者が孔子であるなら、宣伝機関を「孔子学院」と名付けたことも頷ける。