【レポート】廣枝音右衛門氏の慰霊祭

【レポート】廣枝音右衛門氏の慰霊祭

(LinkBiz台湾 メールマガジンVol.213より転載)

 LinkBiz台湾の代表である渡辺崇之さんが、廣枝音右衛門氏慰霊祭ツアーを2008年に企画して
6回目になるといいます。
 本日のメルマガは、渡辺さんの同意を得てその慰霊祭りツアーの記事を転載させてもらいました。

■台湾中部で斎行される日本軍人の慰霊祭

去る2013年9月21日(日)、台湾12景勝地に選ばれる風光明媚な獅頭山の勧化堂にて故廣枝音右衛門氏
の慰霊祭が斎行されました。

■日本人の慰霊祭が台湾で斎行される背景
 1945年2月、マニラの守備についていた廣枝音右衛門大隊長(以下廣枝隊長)率いる台湾人日本兵の
部隊は米軍に囲まれ絶体絶命の状態でした。
決死の突撃命令が出ている中、廣枝隊長は配下の台湾人日本兵達に向かって次の言葉を投げかけました。
「お前達は台湾から来た者だ。家には妻子父母兄弟が待っているだろう。
連れて帰れないのが残念だが、お前達だけでも、生けるところまで行け。俺は日本人だから責任はこの
隊長が持つ。」
この言葉を最後に廣枝隊長は頭部を撃ち抜き自決しました。
その数時間後、台湾人日本兵達は米軍に投降し、その後無事に台湾へと帰国しました。
廣枝隊長は、この自決により自ら責任を取る形で、部下である台湾人の命を救い、彼らを台湾に帰した
のでした。その後、無事に帰国できた廣枝隊長の部下が、何とかその恩に報いたいと思い、1976年9月
26日に初めての慰霊祭を執り行いました。
しかし、歳月の流れと共にその有志は数を減らし、7年前には劉維添氏(以下劉氏)お一人となってし
まいました。それでも劉氏は毎年一度も欠かすことなく慰霊祭を執り行って来られました。

■主催者である劉氏と弊社代表渡邊の出会い

2007年の劉氏お一人による慰霊祭の直後に渡邊が獅頭山を訪れました。
劉氏がお一人となられても慰霊祭を続けられていることを知り、その事にとても感動したそうです。
その翌年の2008年より、慰霊祭ツアーを企画し台北から知人を連れて慰霊祭への参列を始めました。
最初は有志3人でレンタカーを借りての参列でしたが、年を重ねるごとに共感し参列希望者される人
が増え、レンタカーが中型バスになり、一昨年からは大型バスへと規模が拡大してきました。今年の
ツアー参加者は昨年より一層増え、立ち席も出そうなほどでした。
最終的に台風の影響で何名かのキャンセルが出ましたが、昨年より1名多い37名が慰霊祭に参列しました。

■多種多彩なツアー参加者
日本語世代を中心とした平均年齢80歳近くになる在台日本語学習サークル「友愛会」の皆様。日本語で
思いを歌にする短歌サークル「台湾歌壇」の皆様。昨年に続き日本から駆けつけてくれた「日本李登輝
友の会」の皆様。台湾旅行中の方や留学生の皆さん等、多種多様な方々にご参加頂きました。
また、最年少は3歳、最高齢は87歳と幅広い年齢層のツアーとなりました。
ツアーの参加に至った経緯も多種多様で、
LinkBiz台湾の呼びかけに応えて下さった方々、
以前のツアーに参加され、引き続き参加されている方々、
過去の参加者の呼びかけに応えて下さった方々、
高雄のゲストハウスからの告知で情報を得た方、

ChannelAJERが運営する政治経済専門Web放送サイトで流れた渡邊のインタビュー動画を見た方等、日台の絆を
つなぐ活動の輪がどんどん広がっていることが実感できました。

■ 台風の影響を受け不安な天候の中、獅頭山へ出発
集合時、台風19号接近の影響を受け、当日台北の朝の天気はあいにくの雨でした。
時折強い風が吹き、慰霊祭の実施に不安を覚える天候でした。
LinkBiz台湾では、ツアー参加者の皆様が少しでも濡れないようにと雨合羽を大量に準備して、集合場所へと
向かいました。この天候にも関わらず、若干名の方のキャンセルのみで、小雨の降る中、ほぼ満席状態で台北駅
を出発しました。

■バスの中での自己紹介。バスは順調に獅頭山へ到着
バスの中ではツアー参加者全員が自己紹介を行い、慰霊祭への思いを共有しました。
そして、渡邊がLinkBiz台湾で連載している「日台絆のバトンリレー」のコラムをはじめ、友愛会所属の傳田晴久
氏による「臺灣通信」で発表されたコラムや、ノンフィクション作家門田隆将氏による書籍「太平洋戦争最後の
証言 陸軍玉砕編 第二部」から廣枝隊長について書かれた章などを紹介し、この慰霊祭に関連する史実を共有
しました。途中の待ち合わせの場所にて南部からのツアー参加者1名を加え、獅頭山へ向かいました。
待ち合わせ場所に到着するころには、不思議と雨は上がり、獅頭山へ到着したころには地面も乾いている状態
でした。一部青空も見え、何かのご加護があったのかと思うほど、台風の影響は感じられませんでした。

■台湾12景勝地にも数えられている獅頭山へ登山開始
獅頭山の駐車場から勧化堂へ続く階段はちょっとした登山です。
200段ほどの階段を上り10分ほどで慰霊祭会場である勧化堂に到着します。
普段運動不足な方々には調度よい運動です。
登山に自信のない方々は貨車用のエレベータで山中にある勧化堂へと向かいました。

■突然の訃報
勧化堂に到着し、廣枝隊長の位牌を参拝している時に、渡邊より突然の訃報が告げられました。慰霊祭主催者の
最後の一人である劉氏が今朝方1時20分にお亡くなりになったということでした。突然の訃報に一同言葉を失く
します。
しかしすぐに皆、このバトンを次に繋げなければならないという意思で気持ちを強く保ちます。昨年同様に、
慰霊祭に参列するという立場から慰霊祭を主催するという立場へと気持ちの変化が自然と広まりました。

■獅頭山董事長黄錦源氏を囲んでの座談会
突然の訃報もあり、急きょスケジュールを変更しました。慰霊祭後に予定していた本慰霊祭に関する座談会を
先に行いました。以前は劉氏ご自身に説明して頂いていましたが、今年は劉氏に代わって、その活動を近くで
見守ってきた黄氏より説明を受けました。

■獅頭山のご住職による読経のもと慰霊祭の開始
昨年までは、劉氏から廣枝隊長への報告がなされていましたが、
今年からは、渡邊が行い、
「廣枝隊長!! 劉氏に代わり、これから45年間、私が慰霊祭を執り行います。」
と宣言しました。
各団体の代表者が線香を捧げ、弔辞を述べました。
まさに劉氏からバトンが次の世代へ繋がった瞬間でした。

その後、獅頭山のご住職による読経に耳を傾けながら、一同全員手を合わせて拝みました。

■バスで南庄へ移動
慰霊祭の後、バスで10分ほど先にある南庄という街に移動しました。
50年以上の歴史ある老舗客家料理店「老金龍」にて客家料理を堪能しました。
通常の台湾料理より濃い目のパンチの効いた味付けに、
多くの方がご飯をお代わりしていました。
台風で休みの予定であったところ、我々ツアー一行のためだけに店を開け、おいしい料理を振る舞ってくれた
店主に御礼を伝え、店を出ました。

■劉氏の遺影に慰霊祭の報告
「老金龍」から歩いて数分のところに劉氏のお宅があり、そこで劉氏の遺影に向かって順番に黙祷を捧げました。
ご遺族の許可もあり、ご遺体に対面させて頂くことができました。劉氏が安らかに眠るお姿を見て、一同涙しま
した。今後は廣枝隊長と共に、我々をお見守り頂けることと思います。

■南庄の街を探索
その後は南庄の街を探索しました。日本統治時代、第3代総督であった乃木総督とゆかりのある「乃木坂」を登り、
当時の郵便局を観光しました。
そして、毎年恒例となっている郵便局の向かいの日本邸宅を訪れました。
実はこの日本邸宅は劉氏の奥様の実家であり、毎年ツアー参加者は特別にお邪魔させてもらい、素晴らしい庭園を
拝見させてもらっています。
日本時代からある松の下で記念撮影。長崎の眺めとそっくりだという景色を楽しみました。
それからは、抹茶味のかき氷を食べたり、老街といわれる古くからの商店街を探索したりと、思い思いに時を過ご
しました。

■ 一路台北へ
一同、バスに乗車して一路台北へと帰路につきました。帰路のバスの中ではツアー参加者の皆様に感想を発表して
頂きました。やはり、台風にも関わらず好天気となったこと、劉氏が慰霊祭の開催日に亡くなられたことについて、
何かの意志の力を感じるという声がたくさん聞かれました。
そして各々が劉氏の思いを引き継ぎ、この慰霊祭を継続し、広め、次の世代へと繋いでいこうという強い意志を
発表してくれました。
途中の竹南駅と楊梅のインターチェンジで一部のツアー参加者がバスを降りました。台北駅に着くころには、
今まで降らなかった雨が降り出し、雨の中解散となりました。

■最後に、LinkBiz事務局より

バス中ではツアー参加者の皆様よりねぎらいの言葉を頂き、誠にありがとうございました。2013年の慰霊祭は、
劉氏から次の世代へとバトンが受け継がれた重要な回であり、その瞬間に立ち会えたことと、そのお手伝いを
することができたことを、心から嬉しく思います。受け継いだバトンを更に次の世代へと受け継いで行く。
そのためにも、今後もこの企画を継続し、皆様のお役に立てるよう努力して参ります。

以上、現地ツアーレポートでした。

劉維添氏の葬儀は苗栗縣南庄にある劉氏自宅にて2013年10月3日(木)の9時より執り行われます。ご参列を希望
される方はLinkBiz台湾事務局(mail:info@linkbiz.tw 日本語ホットライン02-2568-2334)までご連絡くだ
さい。詳しい情報をお知らせいたします。


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