「台湾人の独立願望とその歴史的背景」(中)

「台湾人の独立願望とその歴史的背景」(中)

メルマガ「はるかなり台湾」より
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日本、いや世界でも、台湾の帰属問題をいうときに前提としてまかり通っているのが「台湾は中国の固有の領土、台
湾人は中国人」という通念である。いうまでもなく中国に有利で、台湾には不利である。日本人のなかには、これを
動かし難い事実と信じているものもいよう。

台湾独立運動の先駆者だった王育徳氏が私にいったことがある。「日本人はわれわれの独立志向を、あたかも九州が
日本からの独立を望むようなものだ、と考えている。」これは「台湾は中国の固有の領土、台湾人は中国人」という
考えに共通するものであるが、ともに台湾の独立を不当とする観念につながる。どうしてこのような考えが説得力を
もつのか、一言にしていえば、台湾の歴史や台湾人の民族性を知らず、これに無理解だからである。知らないのも無
理はない。日本でも知る者が少ない。 多くを語る余裕はないが、どうしても次のことだけは知っておいてもらいたい。

たしかに清国は1684年から1895年まで、台湾を領有し統治していた。ことの発端は、無主の島であった台湾を一時期
オランダが占領した。これを駆逐した明の鄭成功は台湾を反清の拠点にした。清国は兵を派遣して鄭氏一族を滅ぼす。
鄭氏滅亡後清国は台湾を放棄するつもりであったが、戦功のあった施琅の諌止によって版図に加えた。海外の孤島と
して領土的一体感はなく、領土的価値も認めていなかった。領有したものの、移民の中には明の遺臣も多く、台湾が
反清の拠点となることを極度に恐れ警戒した。住民を隔離して封じ込める政策をとった。そのため様々な禁令を定め、
渡航を制限した。「広く土を拓きて民を聚むべからず」というのが統治の基本方針であったから開発の意志はなく、
むしろこれを抑制した。台湾の開拓は移住民の自主的な努力の結果である。

住民を「化外の民」といったことは広く知られている。辺境の異民族と同じ扱いにし、台民と呼んで差別した。信用
していない証拠に、台湾人を政府の兵としては徴用せず、本土から兵を送りこんで監視した。台湾には度々叛乱がおき
たが、駐屯する兵では鎮圧できず、その都度、万単位の救援兵を送り込んでいる。統治の実態は植民地的支配と変わら
ない。統治者と被治者の従属関係は異民族のそれと変わらず、経済面でも同様である。台湾を対岸の穀倉として豊富な
米を供出させ続けたが、繊維やその他の工業製品はすべて本土から移出した。これもまた植民地支配の構造化と変わら
ない。

清国がたやすく台湾を日本に割譲したのも、台湾の重要性を認めていなかったからある。相次ぐ反乱に手を焼いていた
清国は、従わない民の島として台湾をもてあましていた。李鴻章は日本は台湾を領有しても、後で後悔するだろうと公
言していた。

日本に割譲したことによって中国は台湾の領有権を失っている。国際的にも公認されている客観的事実である。かつて
一時期中国の領有であったというだけで、中国の固有の領地と断定するべきことではない。

1945年敗戦により五十年間の日本の統治は終わった。1951年サンフランシスコ条約により、日本は台湾を放棄した。
しかしどこに返還するかについては条約に明記していないし、明言もしていない。条約からみれば、条約締結も当事国
である連合国に対してである。この問題に関する研究には戴天昭氏の大著『台湾戦後後国際政治史』がある。著者はサ
ンフランシスコ条約によって、それまで、中華民国が台湾を占していた根拠は失われたと判断している。同書の結論を
いう。「台湾の地位は法理上はあくまでも未定である。住民の自決権を認めた国連憲章の規定を尊敬するなら、将来台
湾人民の自由公正な投票によって、その地位は決定されるべきものである。」指摘のとおりであるが、最も重要で尊敬
すべき住民の意思が、これまで問われたことはない。これに関しては、台湾人自らがその意思を世界に向かって表明す
べきである。否定される理由はどこにもない。

台湾は中国固有領土というが、かような国際法専門家の意見がある。詳細を読むかぎり、法理上の不備はないように思う。
条約の当事国である各国が、自国の政治的理由でこれを認めようとせず、あえてこの問題を避けて成り行きに任せている
だけである。台湾の地位は、日本の九州にたとえて論じるような単純な性質のものでない。

また「台湾人は中国人」、あたかも「九州人は日本人」というように、これを当然とするいいかたである。理由は同じ姓を
名乗り、同じ言語を話し、同じような生活習慣をもち、共通する文化がある。何よりもほとんどが福建省や広東省の出身と
いうことだろう。では次のケースはどうなのか。これとまったく同じような条件にあてはまるのが、シンガポ−ルの中国系
住民であった。彼らもまたほとんどが、福建省か広東省の出身である。海外、特に南方の移民には福建省と広東省の出身者
が多い。私はシンガポール行ったとき、台湾語で話したが通じた。同じ福建南方語(?南語)である。また従来生活習慣を
守っていることも変わらない。だが彼らは「自分たちは漢民族ではあるが、中国人ではない。シンガポール人だ」という。
当の台湾人も「自分たちは中国人ではない。台湾人だ」といっている。同じことではないか。この現実を否定すれば、オー
ストラリア人も、カナダ人も存在しないことになる。

台湾人の出身地が福建や広東だという形式的な理由だけで、現在の福建省や広東省の住民と同じような中国人だといえるのか。
中国系のシンガポール人に過去の歴史があるように、台湾人にも台湾に入植以来、四世紀に近い歴史を有している。台湾人の
民族性や民族感情は、この歴史と風土の中で培われ形成されたものである。それをここで確認したい。

清国統治時代には厳しい渡航制限令が布かれていたにもかかわらず、台湾移住を希望するものは後をたたなかった。福建省や
広東省の移住民は、相次ぐ戦乱と慢性的な飢饉から逃れるために、新天地を求め自らの意志により、航海の危険をおかして
台湾に渡ってきた。艱難辛苦の末に開拓した土地が、すなわち郷土となった。新たな郷土に墓を築き墳墓の地とした。渡航の
禁令が解除された後には、資産家の中には対岸と往来した者もいたが、大多数の庶民は二度と大陸の土を踏んではいない。
航海の制限が厳しかった時代には自由に往来はできなかったし、無理をしてかえっても再度渡台はできなかった。移住民一世
には本土の記憶があっても、世代を経るごとに大陸との縁絶たれ、心理的な隔たり大きくなった。大陸を祖国や郷土とする
観念は失われていったのである。台湾人には台湾こそが故郷であり、現実の母国である。

作られた史書や記録の類より、伝承されたことばの中に民の声や、ことの真実を見いだすことがある。台湾人が古くから
中国を何と呼んでいたか。台湾語では唐山という。文言音ではトンサン[tong-san]と読むが、白話音(口語音)でトゥンソア
「tug-soa」という。驚くことに日本語と変わらない。日本では昔、中国を唐の国といった。王朝名の唐ではない。中国の代
名詞である。また唐は転じて異国の意に用いられた。台湾語のひびきにも似たものがある。唐山とは、祖国や故郷として叫ぶ
ことばではない。それは次のことばにも表れている。中国人のことを唐山人(トゥンソアラン.tug-soa-lang)または、
唐山客(トウンソアケェ・tug-soa-keh)という。客とは客人であるが外来者、よそ者のことである。仲間にたいして使う
言葉ではない。

次のことばを聞けば意外に思う者が多かろう。中国人を唐山?(トゥンソアゴン・tug-soa-gon)といった。ゴンとは馬鹿.
愚か者の意味である。日本時代には日本人の子供たちも、悪口にゴンゴンとかゴタウ(?頭)という言葉を使っていた。
台湾人は中国人を指して唐山の愚か者といっていたのである。『台日大辞典』にはゴンに?をあてている。慣用されていた
漢字であろう。?は福建省の隣省、江西省の別名であるが、?は愚かな意にも使われた。?とは愚かな心を持つ者の意で
あろう。台湾人は唐山に支配され、唐山人の役人や兵士が駐留していた。また商いに渡台してくる唐山人もいたが、すべて
心を許せる相手ではなく親愛感ももてなかった。台湾人は唐山に統治されていたが、心から服従していたのではない。
唐山?ということばに、台湾人が本土人に対して抱いていた感情と本音を知ることができる。(次号へ続く)


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