メルマガ「はるかなり台湾」より
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日本には、現在の台湾人の外省人にたいする敵愾心を、ニニ八事件による怨念や憎悪によるものとする見方がある。
否定はしないが、すべてではない。事件は台湾人の中に歴史的に潜在する意識を覚醒さす契機となった。現在の「台
湾人は中国人ではない」という主張はその確認とみるべきである。戦後にわかに生まれた民族感情ではない。
かような台湾人の民族性ともいうべきものは、すでに一世紀も前に外国人によって観察されている。ほかならぬ日本
人である。伊沢修二は台湾教育の創設者であるが、教育を開始するにあたり細かく台湾人を観察している。伊沢は中
国語を学び清国の事情にも通じていたが、清国人とは異なる台湾人の特性を認めている。台湾人を清国人としては見
ていない。詳細は拙稿『芝山厳事件の真相』にのべた。台湾民主国軍の挙兵により、鎮圧のために派遣された日本の
軍人たちも同様に観察している。干戈を交えた感想として、台湾の民兵は大陸遼東の兵とは明らかに違い、死を恐れ
ずに勇敢なことは日本兵のようだといった。本土からきた正規兵より、手ごわい民兵に手を焼いた。このことは參謀
本部で編纂した『日清戦史』に記してある。
現在、台湾人は中国人ではないという主張に、こうした精神面だけではなく、人種的にも同一ではないという理由が
あげられている。詳細なデーターは承知していないが、高雄医学院の研究によると。台湾人には中国人に比較してい
て南方系の原住民に近い遺伝子をもっているという。原住民の混血を指しているが、根拠のないことではない。清国
が移民の渡航について厳しい制限を加えたこと先に述べた。禁令を定めたのは1684(康熙23)年であるが、1760(乾
隆25)年にこれを解除するまで七十七年間、八度にわたり朝令暮改を繰り返した。基本的に女性の渡航を禁じ、家族
の招致も認めなかった。必然に極端な女性欠乏現象が生じ、移住民の男性は原住民の女性と結婚するものが増えた。
政府は通婚を禁じたが、これを止めることはできなかった。台湾開拓初期のことであるが、私は中部地方の地方史を
まとめたとき、これについて「両民族の混血はわれわれの想像を越えるものがある」と書いた(『台中〜日本統治時
代の記録』1996年)。前から強く感じていたことである。現在の台湾では原住民を台湾人の範疇にいれて、本省人と
差別してはいない。移住民と原住民との混血、これも台湾の歴史的所産である。私の親しい知人も、自分の中には高
砂族の血がまじっているだろう、といった。旧世代の「台湾人は中国人ではない」という主張は、私には意識という
より確信に思える。
「台湾は中国固有の領土」といえないように、「台湾人は中国人」などと安易にいうべきではないことを、理解すべ
きである。
戦後世界の植民地は相次いで独立し、それぞれの民族の多年の宿願は達成された。だが台湾だけがその例外となった。
国民党による占領は本国への復帰とみなされ、これを喜ぶべきこととして光復と呼んだ。それが台湾の植民地からの
開放とされた。
だが真実は、過去の植民地状態の継続にすぎないことは、台湾の歴史に照らせば明らかである。まず台湾はオランダと
スペイン(北部の一部)の植民地となった。これに次ぐ漢民族の鄭氏政権も台湾を反清の拠点とするための、短命な腰
掛け政権に過ぎなかった。多くの者がまっとうな時代だと錯覚している清国統治も、これまで述べたように実態は植民
地支配にかわらない。代わって名実ともに異民族の日本の植民地となった。日本の支配を脱したあとの国民党政権も、
多くをいうまでもない外来政権である。過去の植民地状態から真に開放されるには、開拓の主人公である台湾人自らの
政権をうち建てるほかはない。台湾の植民地開放はまだ終わってはいない。今ようやくその第一歩を踏み出した。
他の民族に許されることが、なぜ台湾人には許されないのか、さまざまな制約を負わされている宿命的な現実を、台湾
人なるがゆえの悲哀といった者もいる。
これについて司馬遼太郎の『台湾紀行』に興味深い指摘がある。同著によると世界の人々の人権を守るMRGという組織の
本部が、ロンドンにある。ここから出版された本によると、「台湾人」は、少数民族の項にはいっているという。二千
万を越える人口と、大きな経済力と、高い文化をもつ台湾人を少数民族として扱っているのは、妥当ではないかもしれ
ない。だがMRGという組織は、現実にその集団が他の集団によって加虐されているかどうかを、判定の基準にしている。
戦後の中華民国体制における戒厳令下の台湾人の被虐の実態は少数民族の受難と変わらないと判断されたのである。司
馬氏は「台湾人が台湾人であるために持たされている共通の課題をすっきりと集約するとすれば、『世界の少数民族を
知る辞典』のように、少数民族として分類するのがもっとも的確かもしれない」という。司馬氏は台湾に注いでいた視
線は人類愛という高い視点からのものである。司馬氏ならずとも、純粋に人道的な観点に立てば、台湾人の要求を不当
とするものはいないはずである。
余談となるが、戦後の台湾の地名もこれまでのべたことと無縁ではない。当然なことながら、戦後に日本時代の市街地
の町名はすべて決められた。現在の市街地の地番は、道路を中心に決められている。道路の名称を見ると中には、南京、
重慶、長春、長安、長江など大陸の名称や、民権、民族、辛亥(革命)など三民主義や国民党にちなんだもの、また中
山、中正などの個人の号などがつかわれている。戦後にわかに中国一色に塗り変えられ、中華民国という名のミニ中国
が出現した。雨農、雨声など、悪名高い蒋介石の寵臣の号名もある。台湾が蒋王朝に私物化された印象は拭えない。
同時に台湾の歴史や伝統を表す名は姿を消した。このような名称は大陸を追われた者の郷愁を癒しても、台湾人が郷土の
地名として親しみをもち、心の拠りどころとすることができるのだろうか。私には新生台湾を象徴する名称にふさわしい
とは思えなかった。余計なことだ、といわれればそれまでであるが、かつて台湾を故郷としたものの偽らざる感想である。(終)
●中国(中華人民共和国)は1947年の成立後一度も台湾を統治したことがありません。いつから台湾は中国の領土に
なったのでしょうか? 国とは(領土があり、住民がいて政府がある)ことだそうですが、台湾はまさしく国の定義に
該当しているのです。一日も早く、世界から台湾が一国家として承認されることを切望してやみません。
その意味で、これまで3回に分けての篠原先生の論文は皆様方の台湾理解の一助に役に立ったのではないでしょうか。
来年1月の総統選挙は民進党の蔡英文候補が優勢との下馬評ですが、仮に民進党候補が総統になったとしても台湾国が
誕生するまでには前途多難だと思います。今回の文章を一人でも多くの台湾の友人に読んでもらおうと思っています。