【遥かなり台湾】新高山登山

【遥かなり台湾】新高山登山
【遥かなり台湾】新高山登山
          

メルマガ「遥かなり台湾」より転載
    

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台湾にある一番高い山は玉山で、日本統治時代は富士山よりも高い「新しい日本最高峰」の意味で
明治天皇より新高山と命名されたのです。その富士山と玉山が姉妹都市ならぬ姉妹山というか友好
山となる動きがあります。その話が実現したら本当に喜ばしい限りです。
 今日の記事は戦前の新高山に登ったことのある湾生の島崎義行先生(仙台市在住)が書き残して
いたものを紹介したいと思います。

●新高山登山            島崎義行

新高山と言っても、今の若い人達にはピンとこないであろう。はて、そんな山が何処にあるのだろ
うと思ったとしても無理はない。太平洋戦争突入の暗号「ニイタカヤマノボレ」でお分かりと思うが、
昭和20年8月15日までは、かつての大日本帝国植民地、台湾に存在した我が国最高峰(3997メートル)
である。
現在は、自由中華民国の最高峰、玉山として台湾人の人達に親しまれている。観光の名所阿里山には
毎週土曜になると、玉山の背後から登るご来迎見物観光客が、台湾各地から阿里山森林鉄道や、直通
観光バスを利用して大勢登ってくる。
私も一昨年12月、母校台中師範創立六十周年記念式典に出席した後、念願だった阿里山へ妻と妹と三
人で行ってきた。北回帰線が通る台湾中部の都市、嘉義から日本時代よりループ式で有名な、阿里山
森林鉄道に乗った。(阿里山の檜は樹齢二千年を超え、明治神宮の鳥居に使用された。)中興号は二
両連結のディーゼル車で、平日の故か乗客は少なく、新婚らしいカップル2組と私たちの他には、途中
で降りる沿線住民が少し乗っているだけで空席が目立った。
新婚のカップルの1組は、男性が静岡県生まれの日本人で一見セールスマン風の若い男、女性は台湾人で、
笑くぼが実に可愛らしく初初しい感じの二十歳になろうかと思われる女の子であった。このカップルとは、
帰りも同じ列車に乗ることになった。

さて、新高山(玉山)に登るのには二つのコースがあって、もっともポピューラーなのは嘉義から阿里
山を経て登るコースである。もう一つは台中州の水里坑から東埔温 泉八通関を経ての登るコースある。

昭和14年12月、台中州庁(県庁)に勤めていた山の愛好家、柳瀬、中山、林さんたちが皇紀2600年奉祝の
新高山登山を計画していることを、父から知らされた私は早速一行に加えてもらうよう頼んだ。
出発は12月30日を決定した。秋晴れの澄み切った日には、遥か南東方向に新高山の頂上が我が家からも望
見できた。12月末から2月中旬にかけて、頂上付近が白く冠雪していることもしばしばであった、ああ、
あの白いのが雪だなあと思っても、台湾の平地には有史以来雪が降った記録がない、カキ氷のようなもの
だろうと想像するだけであった。それが猛吹雪にあうことになろうとは、夢にも考えなかったのは当たり
前である。
私は、海軍下士官の冬服に戦陸用の脚絆、靴は陸軍の編上靴を穿いて、勇躍台中駅へ向かった。柳瀬さん
とは面識はなかったがすぐわかった。柳瀬さんたちは学生時代を東京で過ごし、アルプス登山の経験を持
っていた。見ると服装が決まっている。上からチロルハット、セーター、登山ズボン、毛糸の靴下、登山
靴、ザックと、どこから見ても山のベテランらしい恰好をしている。それに引き換え、自分の軍装がいか
に野暮ったくそぐわない感じであった。

二水で縦貫鉄道から集集線に乗り換えて、濁水渓を右に望みながら水里まで行き下車する。ここから台車
(トロッコ)で東埔まで登った。往路は上り一方なので、四人乗っている台車を押し上げていくのは、い
くら屈強な人夫でもかなりの重労働である。途中、下山氏手くる対向車に出会うと、どちらか一方が下車
し台車を軌道外に押し出し、対向車を通してから再び軌道に乗せて走り出すのである。
山峽の日暮れは平地よりもずっと早い。東埔山荘に入ったときは、平地ならまだ夕日が望める時刻なのに
とっぷり日は暮れて、山の冷気が身にしみるようであった。東埔山荘の管理人は現職の警察官で、師範の
後輩久保田幸七君の父上であった。温泉につかり一日の疲れの癒した後、山荘心づくしの鹿肉料理のご馳
走に舌づつみを打った。

翌朝は8時出発、ザック類は全部久保田さんが手配してくれた蕃丁が背負って、われわれは身一つで歩き
出した。高砂族は30kgの荷を背負って、山道を時速4キロで苦もなく登っていく。手ぶらの我々が彼らの
後を追いかけるのに精いっぱいという有様である。生れ落ちるとからずっと山で育ってきた彼らにとって
は、山道とはいえ道路を歩くことは、我々が平坦な道路を歩くようなものである。
東埔を出てから2時間も過ぎたろう、途中で狩猟から帰る高砂族の一隊に出会った。背中のタウカン(麻で
編んだザック)にまだ生々しい鹿肉の燻製が入っており、また中の一人は見事な大角を背負っていた。旧式
村田銃と蕃刀、弓、槍で身を固めた眼光爛々たる黒褐色蓬髪異臭の蕃丁の姿に一瞬どきりとする。何しろ彼
らの体肉に流れる首狩りの血潮がいつ騒ぎ出すかもしれない。が何事も無く下山して行った彼らの後姿を見
送ってほっとした。(狩猟にでかけるときは、駐在所に銃の貸与願いを出し、実弾を受け取ってから行く。
食糧に栗餅を持ち猟犬を連れて、一週間ぐらい行動する。はだしでジャンクの中を音も立てず身軽に走り回る。)
日暮れ前、最後の泊地八通関の山小屋に辿り着いた。ポーターを勤めてくれた蕃丁たちは日当を受け取ると、
飛ぶようにして下山して行った。彼らは暗夜の山道をさほど苦にしない。間違っても道をそれるようなことは
無いのである。明日はいよいよ我が国の最高峰新山の頂上に立てるのかと思うと、なかなか寝つかれなかった。
寝つかれないのには別の理由もあった。それは一人に毛布2枚しかなかったので寒くてたまらなかったからである。
当時は、シュラフなどという便利なものがなかったのである。あっても知らなかったかもしれない。

皇紀2600年(昭和15年)元旦、午前3時に八通関の山小屋を出発する。あたりは真っ暗で何も見えない。わずかに
懐中電灯の光が足元を照らす。左側は斜度60度を越す数百メートルの水成岩の斜面である。はるか下方のせせらぎ
の音もまったく聞こえてこない。登山道はもろい水成岩の砕石の上に続いている。うっかり足でも滑らせようもの
なら、一気に数百メートル転落、確実に即死は免れない。慎重の上にも慎重に、闇の中を黙々とリーダーに続いて
いく。午前6時頃、漸く東の空が白みはじめ、危険地帯を過ぎたことが分かった。空が一段と明るくなると、前方に
まぎれもなく新高主山の特徴のある岸峰がはっきりみえるではないか。思わず歓声を上げる。ここで最後の休憩に
入るためにザックを下し、這松の枯枝に腰を乗せた。
その途端である。猛烈な突風が山頂方面から吹き降ろしてきたかと思うと、空一面乱雲に覆われる真っ白な雨が降
ってきた。見る見る中に山頂から黒っぽい岩膚が消え、真っ白に染って行く。不思議なことに濡れないのである。
私は生まれて始めて吹雪にあっている事を理解するまで暫く時間を要した。上空には青空も覗いているのに、吹雪
は陳有蘭渓から山頂へ向かって猛烈に吹き上げてくる。もう前方はまったく何も見えない。吹雪が収まるのを待つ
しかない。這松の枯枝を集めて火を起こし焚火を囲んで暖をとる。ザックから取り出したミカンもおにぎりも冷た
く固くなっている。ミカンを焙って食べたのも生まれて初めての経験だった。今から考えると気温がマイナス20度
近くあったらしい。待つこと2時間、吹雪はおさまり処女雪で白くなった登山道を、頂上目指して一歩一歩滑らない
ように踏みしめて行った。最後の難関の垂直部分を登りきって山頂に立ったのは、ちょうど午前9時であった。
50坪の程の山頂には、小さな新高神社の祠があった。一同礼拝を済ませた後思い切り大きな声を張り上げて万歳三
唱した。下界は生憎の天候激変で見渡す限り乱雲に覆われ何も見えない。見えたのは近くの新高山の北峰、南峰ぐ
らいであった。今日は昨夜泊まった八通関を素通りし、日が暮れないうちに一気に東浦山荘まで降りなければなら
ない。時間の余裕はない。私は思い出にと思って日本一高いところで倒立をした後、不要の水分を岩壁から下界に
向けて体外に排出し、大いに気分壮快になった。
頂上に30分もいたであろうか。日本一の高峰に立った感激にゆっくり浸るまもなく、後ろ髪を惹かれる思いで降り
始めた。降りは登りよりも恐ろしい。特に頂上直下の垂直部分は100メートル足らずであるが、一歩足を滑らせば、
あっという間に500メートル下の陳有蘭渓に転落するのである。やっとの思いで無事降り切り鞍部に達した。ここ
からは、余程のことがない限りそう危険はない。途中何度も振り返っては主峰を眼に焼き付けながら、八通関目指
してひたすら急いだ。

再び東埔山荘に着いたときは、流石にみんな疲れてぐったりとなった。考えてみると午前3時からずっと歩きずく
めだった。久保田さんも加って皇紀2600年元旦の夜を、新高山登山成功の祝杯を上げて過ごした。
翌二日、久保田さんにお礼を述べ、再び台車で水里坑まで下りた。東埔から水里坑までは高度差にして2000メート
ル近くある。そこを一気に走るのだからスピードを抑えるためブレーキのかけっぱなし、一寸油断すると直ぐカー
ブで脱線してしまう。途中濁水渓の断崖で脱線し車体が半分渓流の上に出たときには、落ちなかったのが奇蹟で本
当に寿命が縮んだ。幸い無事走り出すことができたが、人夫も我々も顔面蒼白しばらくは誰も口をきくものがなかった。
午後3時過ぎ、無事に水里坑に到着。遥か後方に連なる中央山脈に別れを告げ、二水行きの列車に乗る。台中駅に着
いたときはどっぷりと日は暮れ、駅前のスズラン通りの街灯が緑川の川面を照らしていた。幸町の柳瀬隊長の宅で登
山無事終了の乾杯をした後解散した。

数々の思い出を残して、無事新高山登山は終わったが、私には予想もできなかった登山の後遺症が待っていた。それは、
元旦の早朝に猛吹雪に遭ったとき、軍手しかはめてなかった私の両手小指が凍傷にやられていたのだった。台中に帰って
から小指の色が次第に白蝋化してきて、感覚がなくなってきた。最初はなぜ色が変わってきたか理解できなかったが、
少々叩いても試しに針で突いてみても、まったく痛みを感じなくなっていた。初めて凍傷にやられたことを知った。
常夏の島台湾で、凍傷にやられたといっても信じてもらえないかもしれないが、これは事実なのである。幸い軽かった為、
大した治療もしなかったが、一ヶ月後、指を切断することもなく元通りの指に戻ってくれた時は、本当にうれしかった。
もう二度と登ることのない新高山、私にとって日本一高かった故郷台湾の山、今日も写真を眺めながら、過ぎ去りし青春
時代を懐かしんでいる次第である。

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