10月14日(日)、福岡で明石元紹氏を講師に明石元二郎を識る講演会

台湾の発展に貢献した『あかし・もとじろう』を知っていますか。【本会後援】

郷土の偉人・明石元二郎を識る講演会【アジアマンス2007公式登録事業】

日露戦争を勝利に導き、台湾の発展に貢献した『あかし・もとじろう』を知っていますか。

■演 題:第一部 『清廉無欲にして仁、明石総督伝』木下富夫(台湾研究会理事)
     第二部 『祖父、明石元二郎を語る』明石元紹(元二郎令孫・画家)

■期 日:平成19年10月14日(日)午後1時開場、1時半開演

■会 場:福岡市立早良市民センター大ホール(地下鉄藤崎駅3階)

■主 催:台湾研究会、内外文化交流会 

■後 援:日本李登輝友の会、台湾観光協会

■協 賛:筥崎宮、在日田イスラエル名誉領事館、日経西部ピーアール、元気インター
     ナショナル

■入場料:一般1000円 小中高生及び留学生無料


 明石元二郎(1864年(元治元年)8月1日〜1919年(大正8年)10月26日)は、福岡市中
央区大名出身の明治、大正期の陸軍軍人です。

 黒田藩1300石という大身の家柄に生まれましたが、生家が勤皇佐幕の争いに巻き込ま
れて没落したために、大名小学校を卒業後上京し軍人を目指します。幼年学校、士官学
校、陸軍大学校を卒業、主に参謀(情報)将校として軍歴を重ね、大将まで昇進しまし
た。明石の業績としては、時のドイツ皇帝ウィルヘルム二世をしてその戦果は、20万陸
軍のそれに匹敵すると言わしめた、日露戦争時の欧州での反ロシア・ツアーリ勢力を結
集させるための諜報活動が、よく知られています。しかしその後の事績、特に第7代台湾
総督時代のことはあまり知られていません。

 明石元二郎の台湾総督としての在任は大正7年(1918年)6月から翌10月の1年余りです
が、その間に手がけられたことは、今日もなお生きる台湾近代化のための基幹インフラ
整備事業のすべてに及ぶものでした。即ち、台湾電力の創設と水力発電事業の推進、華
南平野の治水、鉄道の整備、東西横断道路建設、諸銀行の設立、教育制度の整備拡充、
台湾軍の創設等々。それらは欧州での戦果にも決して劣らぬ業績でした。総督を務めて1
年余り後の大正8年10月、重い病を得て療養のための帰路、ここ福岡の地で息を引き取り
ますが、死して後も土となって台湾を守るとの遺言により遺骸は台湾に返され埋葬されま
した。台湾の人々が今日もなお明石元二郎を敬愛する所以です。

 本講演会では、明石元二郎の直系の孫に当たられる明石元紹(あかし・もとつぐ)氏
に遠路東京よりお越しいただき、特に福岡での幼少時及び台湾総督時代について、ご親
族の目線でお話いただこうと思っています。

 また、当会理事木下富夫氏が、出生・幼少期から台湾総督期まで、明石元二郎の全生
涯を概説し、その人物識見、軍人及び台湾総督としての資質業績、日本近代史上におけ
るその評価などについて解説いたします。


明石元紹(あかし もとつぐ)氏 ご略歴

1934年(昭和9年)1月、明石元長(元二郎長男)の長男として東京に生まれる。(命名
は児玉源太郎大将の長男・児玉秀雄拓務相)。女子学習院付属幼稚園時代から今上陛下
のお相手を勤める。1940年4月 学習院初等科入学、今上陛下とご同級。戦争激化ととも
に沼津、日光、日光湯元に学童疎開、陛下と過ごす。湯元で終戦。高等科にて馬術部所
属、陛下が主将。国民体育大会2回出場。1956年3月 慶應義塾大学経済学部卒業。プリ
ンス自動車入社。社長秘書のときに日産自動車に合併、日産プリンス東京販売ほか関係
会社役員を続歴。その間、乗馬(ポロ)、テニスなどで両陛下とご親交。

・趣味の油絵が嵩じて個展を11回余開催。毎年ヨーロッパへ取材旅行。
・石川滋彦、楢原益太画伯に師事。
・現在、夫婦2人で生活、娘二人は結婚、孫合わせて7人全部男児。
・祖父・元二郎の墓の再建などで訪台10回余り。
・日本李登輝友の会設立とともに理事に就任(平成14年〜18年)。

■お問合せ先(企画責任者)
 台湾研究会事務局長 永嶋直之 080-5602-1586
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 TEL&FAX 092-781-3458