◆はじめに
台湾通信No.110で高砂義勇隊ならびにその慰霊碑についてご紹介いたしましたが、今回はその慰
霊碑建立に尽力された周麗梅さんと他生の縁あり、慰霊碑のその後について、ご紹介させていただ
きます。
◆慰霊碑との出会い
2001年7月、「日本精神溢れる台湾を訪ねて」というツアーに参加し、台湾各地を訪ねる途中、
烏来の高砂義勇隊慰霊碑を訪問したのが最初です。
烏来のトロッコを降りてすぐ先の「酋長文化村跳舞場」の横の急な階段を数十段上って行くと左
手に「台湾高砂義勇隊紀念碑」と書いた標識があり、一歩足を踏み入れてびっくり仰天、はためく
日章旗と青天白日満地紅旗に挟まれた「霊安故郷」の碑がありました。
◆周麗梅さん
十数年前ですので、当日の式次第がどうであったか思い出せませんが、周麗梅さんがタイヤル族
の酋長の正装でしょうか、写真のような姿で、ツアーメンバー一同を前にしてご挨拶されました。
周麗梅さんのタイヤル語のお名前はリームイ・アべオと仰り、アべオはお父さんのお名前、リー
ムイは北京語の小姐に相当するとの事、日本名は「秋野愛子」と自己紹介されました。
前号(No.110)にていろいろ引用させていただいた『台湾と日本・交流秘話』(展転社)では、
周麗梅さんは台湾高砂聯誼会会長として高砂兵士への尊敬の一念で、やっとの思いでこの碑を完成
させた功労者として紹介されています。周さんは「台湾を訪れる日本人にはぜひこの碑を訪ねて、
高砂兵士のことを知ってほしい」と訴えているとのことでした。
◆SARS禍、そして愛子さん死去
私達がツアーで訪問した翌年の秋、2002年11月に中国で重症急性呼吸器症候群(SARS)が発生
し、翌年アジア一帯で猛威を振るいました。
台湾でのSARS防疫に大活躍された衛生署長(衛生相に相当)が、今月20日に蔡英文総統と共に就
任する副総統の陳建仁氏です。台湾医療陣の懸命な防疫活動の結果、翌年(2003年)7月5日WHO
(世界保健機関)が終息宣言を出しましたが、台湾におけるSARSの風評被害は大きく、台湾を訪れ
る観光客が激減し、観光地の経済に大きな被害をもたらしました。
高砂義勇隊慰霊碑のために敷地を提供していた企業(観光業)もそのあおりを受けたのでしょう
か、倒産してしまい、その敷地を明け渡さねばならなくなったということです。
周麗梅さんはこの時の心労が原因でしょうか、心筋梗塞のため、その年の11月19日に台北市内の
病院で亡くなられました(産経新聞2003.11.22)。
◆日本での募金活動、慰霊碑移転
慰霊碑撤去を知った多数の日本人有志が、産経新聞の募金に応じました。2004年末には3,398
件、合計3,201万2,391円の浄財が集まりました。
私は2005年6月30日に烏来に出向き、高砂義勇隊慰霊碑を訪ねるために、酋長文化村跳舞場の裏
山に行ってみましたが、碑はすでに撤去された後で、碑があった周辺は無残な形でありました。そ
の足で、2001年に周麗梅さんにお目にかかった「酋長の家」というお店を訪ね、周麗梅さんのお墓
の所在をお聞きし、お墓参りをさせていただきました。
私はその年の12月末から台南の成功大学華語中心で北京語の勉強をすることになっており、授業
が始まる直前(12月27日)に烏来を訪ねてみましたが、ちょうど移設工事の真っ只中でした。
◆新慰霊碑除幕式典、そして再度の難題発生
翌年(2006年)2月8日、新しい慰霊碑の除幕式が行われました。私は行けませんでしたが、お聞
きしたところによりますと、この除幕式には李登輝元総統、交流協会台北事務所の池田維代表、現
代文化基金会の黄昭堂理事長、自由時報の呉阿明社長ら多数が参列されたとのことです。
ところが、除幕式の数日後(2月17日)、「中国時報」が慰霊碑ならびにいくつかの紀念碑に刻
まれた文言(例えば「大和魂の復起」「皇民の赤誠」など)が日本の軍国主義を美化するものだと
非難し、靖国神社に批判的な高金素梅立法委員が呼応するかの如く抗議活動を起こしたと言いま
す。
新たに敷地を提供してくれた筈の台北県政府(国民党執政)は一転、慰霊碑などの撤去を求める
ことになりました。李登輝元総統揮毫の「霊安故郷」などの碑文は全て竹の覆いで封印され、8つ
の石碑は強制撤去されてしまいました。
地元側は法廷闘争に持ち込み、処分撤回を求めました。3年後の2009年3月24日、行政訴訟の差し
戻し審判決が台湾高等行政法院であり、判決は県側の主張を退け、処分の撤回を指示しました。
2010年3月に再び烏来を訪ねましたが、慰霊碑、その他の記念碑など全て元に戻っていました。
◆台風で流失
紆余曲折を経て高砂義勇隊慰霊碑は、2010年3月には瀑布公園内の「烏来高砂義勇隊主題紀念園
区」に完全に復元されました。タイヤル族の戦士の像が見つめる先には「白糸の滝」が滔々と水し
ぶきを上げています。
しかし、台湾通信前号(No.110)で紹介したように、高砂義勇隊慰霊碑は2015年8月8日の台湾を
襲った台風13号による土石流に呑みこまれ、再び我々の前から姿を消してしまいました。
◆今春、再び墓参
今年の3月初旬、烏来の周麗梅さんのお墓を訪ねてみました。前回お参りしたのは2005年6月末で
したので、場所もすっかり忘れてしまい、探すのが大変でした。交番の巡査に聞き、タクシーの運
転手に聞き、土産物屋の主に聞いても分かりませんし、かつて伺った「酋長の家」も誰もおらず、
途方にくれました。
そのとき、以前訪問したことがある「烏来泰雅民族博物館」を思い出し、飛び込んでみました。
ガイドさんの一人は「愛子さんのことね」とすぐに応じてくれ、タクシーを呼んで、親戚を訪ねる
ように手配してくれました。その結果、愛子さんのお墓は台北県烏来郷第二公墓という所にあるこ
とが分かり、タクシーで訪ねることができました。
お墓は昔訪ねた時の印象と大部異なり、大変驚かされました。台湾は毎年4月4日〜6日頃に清明
節(掃墓節とも)があり、家族そろってお墓の清掃をし、先祖を祀るそうですが、私が訪ねたのは
そのひと月ほど前でしたので、未だお墓は荒れた状態であったのかもしれません。
◆おわりに
李登輝元総統が揮毫された「霊安故郷」の意味は「霊魂(英霊)は故郷に眠る」ということだそ
うで、軍国主義を美化するものではないことは明らかですが、それを竹などで囲って外部から見え
ないようにするとはどういうことでしょうか。
手元に資料がないので正確な時期は不明ですが、台北の北部・芝山巌に「六氏先生の墓」(1896
年日本人教師6人が土匪の襲撃を受け惨殺された)の近くに伊藤博文の筆による「學務官僚遭難之
碑」がありましたが、同じ頃だと思いますが、その碑が黒いシート様のもので覆われているのを見
たことがありました。
高砂義勇隊慰霊の碑も学務官僚遭難之碑もその後、誰の目にも見ることが出来るようになったの
は幸いなことと思います。
しかし、高砂義勇隊慰霊碑は台風によってふたたび災難に遭ってしまいました。建立に苦心され
た愛子さんの心を思うと涙を禁じ得ません。今年の5月初めに烏来を訪ねましたが、復旧のめどは
立っていないように見受けました。1日も早い復旧を祈ります。