開館準備進む、過去と未来をつなぐ台湾の国家鉄道博物館  齊藤 啓介

【nippon.com:2021年6月26日】https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c10002/

 台湾で国家(国立)鉄道博物館の開館準備が進んでいる。日本統治時代に建設された鉄道工場の跡地を利用したもので、現在は建物の修復や展示する文物の収集作業などに余念がない。台湾の鉄道の歴史は日本と密接な関係にあることは周知の通りだが、そんな台湾の国家鉄道博物館はどのような展示が計画されているのだろうか。

◆台湾鉄道の日本との関わり

 台湾で初めて鉄道が開業したのは、清朝時代の1891年。基隆−台北間で運行を開始した。台湾の開発と防衛強化を目的としたもので、当初の計画では、さらに打狗(高雄)までの建設を目指していたが、実際には予算の都合などで93年に新竹まで延伸するにとどまった。当時の工事はずさんで、開業後もありとあらゆる問題が噴出したとされるが、そんな半人前とも言える鉄道を立て直し、さらにその機能を飛躍的に向上させたのは、紛れもなく95年から台湾を統治した日本である。

 そもそも鉄道開業前の台湾は、比較的平坦な中央山脈の西側エリアであっても、南北に点在する都市間に陸上交通網はほとんど存在せず、物的・人的交流は限定的だったとされる。台湾総督府はそんな状況を打破しようと、領台直後から清朝時代には実現されなかった打狗までの延伸と新線建設、さらに既存路線の改良に取り掛かった。

 限られた予算と物資、過酷な自然環境などの悪条件が重なり、工事は一筋縄ではいかなかったが、紆余(うよ)曲折を経て、1908年に基隆から打狗(現在の高雄メトロ西子湾駅付近)を結ぶ縦貫線の全線開通にこぎ着けた。高速で大量に貨物や旅客を輸送できる鉄道は、台湾における軍事、経済双方の輸送需要を一手に引き受けた。

 戦後、台湾は中華民国に統治され、台湾総督府が手掛けていた鉄道事業は、交通部台湾鉄路管理局(台鉄)に引き継がれるが、日本との関わりは途切れなかった。72年には日台断交という政治的危機に直面したものの、その後も断続的に日本製の車両が導入された。カーブを高速で走行できる車体傾斜装置を搭載し、現在の台鉄の花形特急として活躍するタロコ号とプユマ号もそれぞれ日本製の車両である。また、日本の複数の鉄道事業者と台鉄が友好協定を結ぶなど、技術面のみならず観光面でも交流が盛んになっており、日本と台湾の鉄道のつながりは、近年一層強くなっているとさえ感じられる。

◆日本統治時代の面影残す鉄道工場を博物館に

 国家鉄道博物館の開館準備が進められているのは、1935年に運用を開始した台北鉄道工場があった場所だ。当時最新鋭の機器を導入した車両工場で、完成時には東洋一の規模ともうたわれた。増加を続けていた輸送需要に対応すべく車両の組み立てや各種整備作業を担い、鉄道の運行を支えた。太平洋戦争時には米軍による空襲に見舞われ、多数の死傷者や建物の損壊を出したものの、戦後も引き続き運用され、1960年代のディーゼル機関車、70年代の電化に伴う電気機関車や通勤型電車の導入時には、その都度関連施設を増設して対応し、「鉄道の病院」との異名も持っていた。

 しかし、2009年になると工場周辺の鉄道地下化事業と台湾高速鉄路(台湾新幹線)の延伸工事の進展で、桃園市に新設される富岡車両基地への機能移転が決まる。段階的な機能移転を経て、台北鉄道工場は14年、惜しまれながらも全ての運用に終止符が打たれたのだが、その歴史はそれだけでは終わらなかった。台湾の文化部は15年、この地で育まれた歴史的、文化的、芸術的価値を認め、16.79ヘクタールの土地を産業遺産として国定古蹟に指定したのだ。さらに古蹟の有効活用案として国家鉄道博物館の開館が決まり、19年に準備室が発足した。

 現在、敷地内をいくつかのエリアに分けて建物の修復作業が行われており、今後完成した部分から段階的に開放される計画だ。今も定期的に特別展が行われているほか、予約制ではあるが敷地内の簡単な見学を受け入れている。さらに24年には事務所、浴場、大ホールおよびディーゼル工場など、敷地北側の建物群を開放し、予約制で動態保存の車両や作業場などの見学、展示鑑賞ができるようにした後、27年にはメイン展示場、劇場、飲食施設など、博物館の核となる施設を開放するという。

◆博物館が目指すもの

 台湾では近年、台湾各地の土地柄や風土、地域色、歴史への関心とそれを評価する動きが顕著だ。鉄道への注目も高まっており、2020年には旧台湾総督府鉄道部の建物を活用し、鉄道への理解が深められる国立台湾博物館鉄道部園区(鉄道部パーク)がオープンしている。国家鉄道博物館準備室では博物館を通じて「鉄道を見て台湾を見る。台湾を見て自分自身を見る」ことの大切さを広く訴えたいとしている。鉄道の存在そのものやイメージは、文学作品や音楽、映画など、あらゆる場面に登場し、台湾文化と人々の記憶に根付いているにも関わらず、普段はありふれたものとして気にも留められない。だからこそ、そのことに気付いてもらいたいというのだ。

 博物館では「音」の展示にも力を入れる方針で、蒸気機関車の走行音や汽笛、ホームの環境音、案内放送などを通じて、参観者に改めて鉄道を身近な存在として認識してもらおうと考えている。地元の台北市や学校などとも連携してイベントや企画展示なども進める計画だという。

◆博物館の目玉

 さて、気になる展示内容だが、残念ながら現在のところ、全容は明かされていない。そんな中、特別に組立工場の見学を許可され、その一端をのぞくことができた。

 組立工場は幅24メートル、長さ168メートル、主要部の高さ13.8メートルの巨大な建物で、1935年に稼働を開始した。台北市の中心部に位置しているものの、都会の喧騒(けんそう)とは無縁で、ひっそりとしている。床はコンクリート、天井には鉄骨が張り巡らされていて、飾り気のない無機質な雰囲気が漂うが、ガラス窓が多用され、照明をつけていなくても適度な明るさが保たれている。戦前の建物といえども、すでにエコの概念が取り入れられていることに驚く。博物館敷地全体がそうなのだが、そもそも鉄道工場だった古蹟のため、建物自体に見るべき価値があるというのも魅力だ。

 その中に、台湾全国を駆け巡った鉄道車両の数々が残されている。実物の車両が展示されている博物館は日本を含めて世界中にあるが、実際に運用されていた鉄道施設で、長い時間を経て、かつての車両が保存されているというのは、歴史のつながりを感じられて感慨深い。現役を引退して数十年たつ車両でさえ、修復の上、再塗装されており、車内もシート生地を復元して補修するなどして、新車同様の美しさを醸し出している。中には長期間野ざらしだった車両もあり、損傷がひどかったケースもあったというが、そんな印象をみじんも感じさせないのは、スタッフの並々ならぬ尽力があってこそだと思われる。日本製の車両もあり、どことなく懐かしさを覚える鉄道車両を楽しむのと同時に、異国の地で活躍したメード・イン・ジャパンの車両たちをぜひ見つけてほしい。

 日本の鉄道マニア必見なのは、国鉄の寝台電車583系だ。「台湾の鉄道博物館になぜ日本の車両が」という疑問が湧くのだが、関係者によれば、「台湾でも過去に寝台列車が走っていたが、高速道路の開通や鉄道が電化する中で、南北移動にかかる時間が短縮され、寝台車は過去のものになってしまった。当時の寝台車は現存していないため、日本の寝台車を通じて、過去の鉄道旅行の歴史を伝えたい」という。

 素人ながら、台湾で走行していた車両のモックアップ(実物大模型)を作ることはできないのかと考えたが、実物には実物の質感やにおい、言葉では表現できない年季や記憶というものがあるのだろう。展示場所が日本であれ台湾であれ、貴重な遺産には変わりはない。日本の鉄道車両の保存に尽力した関係者に感謝したい。

 また、敷地内には前述のように太平洋戦争中に、機銃掃射や爆弾の直撃を受けたとみられる跡も残されている。当時の台湾は日本統治下であったが、日本国内で台湾の空襲被害の実態に触れられる機会はほとんどない。建物に残されたもの言わぬ傷跡を通じて、普段は意識することのない台湾と日本の歴史にも目を向けてほしい。

 現在開放されている区域は非常に限定的であるものの、日台の鉄道のつながりを再認識できる国家鉄道博物館。今後開放範囲が広がれば、台湾の鉄道への認識がより一層深まることだろう。開館準備が順調に進むのを祈らずにはいられない。

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