言論で世の中を変えられなくなったリベラルの進む道  黄 文雄(文明史家)

[黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」:2023年4月26日号]https://www.mag2.com/m/0001617134*読みやすさを考慮し、小見出しは本誌編集部が付けたことをお断りします。

◆島田雅彦氏の「暗殺が成功して良かったな」はリベラル言論人の本音

 作家で法政大学国際文化学部教授の島田雅彦氏の発言が大炎上しています。島田氏は14日に自身のインターネット番組で、昨年7月の安倍晋三元首相の暗殺を念頭に、テロを容認するかのような発言をしたとのことです。

 島田氏はネット番組で、「こんなことを言うと、また顰蹙を買うかもしれないけど、いままで何ら一矢報いることができなかったリベラル市民として言えばね、せめて『暗殺が成功して良かったな』と。まあそれしか言えない」と発言。

 しかも、翌日には選挙応援演説に訪れた岸田文雄氏に爆発物が投げ込まれる事件が発生したこともあり、新たなテロを誘発しかねない島田氏の発言は、各方面から厳しい批判を浴びました。

 夕刊フジの取材・質問に対して回答文を寄せ、自らの発言の軽率さを認める一方で、安倍元首相を殺害した山上容疑者が旧統一教会に怨恨を抱えていたことへの同情からつい口に出てしまったと述べ、さらには、安倍氏暗殺を言論に対する暴力と捉えると、安倍政権が言論・報道への介入、文書改ざん、説明責任を放棄し、安保三法案の閣議決定などで民主主義を「踏みにじってきた」ことが目立たなくなると主張しました。

 島田氏はその後、「夕刊フジが私の釈明分を掲載しつつも、誤解を拡大し、炎上を煽る誌面づくりをしたことに対し、また記事に扇動され、法政大学や在学生に対する卑劣な中傷を書き込んだ者に対しても強く抗議します」とツイッターに書き込みました。

 山上容疑者の安倍氏暗殺の動機については、まだはっきりしていない部分もありますが、旧統一教会への恨みが原因だとすれば、完全な逆恨みですし、島田氏が言うように、安倍元首相が民主主義を踏みにじってきたというならば、民主的手法により選挙で落とすべきだったはずでしょう。

 にもかかわらず、テロや暗殺に一定の意味があるとすることは、「記事に扇動されて大学に卑劣な中傷を書き込む」ことと同じか、あるいはそれ以上の煽動になるのではないでしょうか。

 安倍氏のテロに対しては、他にもリベラル言論人から「(安倍氏暗殺を)知ったときは思わず、でかしたと叫びました」「(今回の事件は)世直しとして機能している」といった発言が飛び出していました。

 私は、島田氏の「いままで何ら一矢報いることができなかったリベラル市民として言えばね、せめて『暗殺が成功して良かったな』と」いう言葉が、これらリベラル言論人の本音なのではないかと考えています。

 結局、リベラル言論人の言葉が、世の中に届かなくなっているのです。社会を変えるだけの力を失ってしまったといえるでしょう。

 その原因は、北朝鮮の拉致問題、慰安婦問題、歴史教科書問題、憲法改正など、国防や国家主権といった日本の大問題に対して、時に嘘をつき、時に不都合な問題は覆い隠し、現実を見ず、ひたすらご都合主義的姿勢で日本を貶め、結果として国力を弱体化させてきたという実態が明らかになったからと見ています。

 また、本来のリベラルとは、寛容さによってさまざまな意見の違いを包摂するものですが、とくに近年の日本のリベラルは、自らへの批判を「差別」「ネトウヨ」「反知性主義」などとレッテル貼りのもとに切り捨て、まともに議論しようとしない姿勢が目に付きました。そうしたリベラルにあるまじき不寛容さも、リベラル離れを加速させたと思います。

◆言論を弾圧し独裁的という批判を浴び始めたリベラル派

 かつて左翼全盛の時代、メディアにはリベラルな言説が並び、日本の多くの若者が感化されたものでした。メディアのほとんどはリベラルでしたし、民衆もそれ以外の情報収集能力がありませんから、左傾化するのが当然でした。

 しかしインターネットが登場してから、この状況は大きく変化しています。リベラルの欺瞞や歴史の嘘、議論に対する不誠実な姿勢が明らかになっていきました。慰安婦問題では朝日新聞が過去の記事の嘘を謝罪せざるをえなくなり、国際情勢も「憲法9条さえあれば大丈夫」とはとても言えない状況にあることが次第にわかってきたのです。

 その結果、もともとリベラルに傾きがちな若者のほうが、自民党の支持率が高いといった逆転現象も生まれています。

 しかも、前述したように、最近はリベラル勢が寛容さを失い、むしろ先鋭化するかのような出来事も起こっています。

 例えば立憲民主党の小西洋之議員をめぐる一連の騒動などはその好例でしょう。安倍政権時代の「報道圧力」を追及し、これに関連して高市早苗・経済安全保障担当大臣に対して辞職を迫っていた小西議員ですが、自身が憲法審査会を誹謗したことで大きな騒ぎとなり、しかもこれについて報じるマスコミや、小西氏批判を展開する一般市民に対して法的措置を匂わせる姿勢を見せたことで、むしろ言論を弾圧するのはリベラル側ではないかという批判が強くなりました。

 また、日本共産党が執行部批判や党首公選制の導入を主張した党員を除名するといったことも、「リベラル勢のほうが独裁的なのではないか」という疑念を世の中の人々に抱かせることにもつながりました。

 先の統一地方選挙、衆議院補欠選挙では維新の躍進が目立ちました。維新が野党第一党になる可能性も囁かれています。リベラル勢は、「維新は自民党の補完勢力」と見ており、ますますリベラル勢力の退潮が進むことは間違いありません。

◆台湾リベラルと質も中身も異なる日本リベラルの退潮は止まらない

 民主主義の根幹は自由な言論と選挙です。しかし、もはや言葉によって世の中を変えられないと悟った一部のリベラルは、選挙ではなく、テロによる「世直し」を称揚するという、いわば「禁じ手」に出るようになってしまったと、私は考えています。

 1932年の5・15事件は、首相官邸を襲撃した青年将校らに対し、当時の犬養毅首相は「話せば分かる」と説得しようとしましたが、将校らは「問答無用」と言って殺害しました。この事件は、話し合いを拒否し暴力によって現状を変更し、政治に対する軍部の影響力を強めた好例として、リベラル勢もよく「教訓」として語ってきたことです。

 ところが現在のリベラルからは、むしろ「問答無用」の暴力による現状変更を擁護するかのような言説が聞かれるようになったことで、そのご都合主義がまたもや明らかになった形です。

 もちろんこれはリベラル言論人の敗北にほかなりません。言論では世論を変えることはできず、テロによってしか世の中を変えられないことを認めたに等しいわけですから。

 これが独裁国家であれば、圧政・悪政への対抗には暴力的なテロに訴えざるをえないということもあるでしょう。しかし日本は民主主義国家であり、完全な発言の自由があります。

 安倍政権はそんななかで国政選挙6連勝を果たしたのです。リベラル勢はこれが悔しくて仕方なく、政権によるメディアへの圧力があったことにしたいと願い、モリ・カケ・サクラなど、さまざまな疑惑を作り上げてきたわけですが、結局、その疑惑を証明するようなものは何も出ませんでした。

 このような焦りがテロ容認ともいえる言動につながっているのだと思います。とはいえ、リベラルの存在意義を自ら否定するような言説は、自らの首を締めることになるのは言うまでもありません。既存のリベラル勢の退潮は止まらないでしょう。

 「テロは容認できない。しかし事件の背景にある●●を見逃してはならない」というような言説も同様です。このような言い方は、「テロは容認できない」ということより、その後の「しかし」以後の内容こそが本当に主張したいことであり、テロを相対化する実質的なテロ容認なのです。

 台湾は、1947年の228事件から国民党の白色テロ(反体制派弾圧)が始まり、世界最長の戒厳令期間を経て、1996年の総統直接選挙でようやく民主化しました。国民党独裁時代には、多くの無辜の市民が虐殺され、言論弾圧も苛烈なものでした。

 このような時代には、もちろん市民側からの政権へのテロ行為もありましたが、むしろ政権側による市民の弾圧と虐殺が横行していたため、「白色テロ」と呼ばれるわけです。

 こうした厳しい統制と弾圧の時代を経て、台湾は民主主義を勝ち取ったわけです。しかも、革命や暴力による体制転覆ではなく、あくまで民主的手続きによって成し遂げることができました。

 そのような台湾人からすると、民主主義国家の日本でテロ容認発言が出ること自体が、きわめて異常なことだと言わざるをえません。私はかねてより日本のリベラルは、反日日本人か、渡部昇一氏がいうところの「敗戦利得者」なのではないかと思ってきましたが、ますますその思いは強くなっています。

 台湾の民主化を求めて戦い、台湾人としてのアイデンティティと誇りを重視する台湾のリベラルと、これまで自国の名誉を貶め、さらには民主主義下のなかでテロを容認する日本のリベラルとは、同じ「リベラル」でも、その質も中身もまったく異なるのです。

※この記事はメルマガ「日台共栄」のバックナンバーです。


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