補償対象外とした台湾出身戦歿者に支払っていた536億円の特定弔慰金

6月23日は「沖縄慰霊の日」。

その前日の22日、東京の靖國神社にて本会主催の「六士先生・慰霊顕彰の集い」が執り行われていたほぼ同時刻、沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園においては、日本台湾平和基金会の主催により「台湾之塔」前で台湾出身の戦没者を慰霊する「台湾戦没者慰霊顕彰祭」が行われていた。

この「台湾之塔」は2016年6月25日に建立され、2018年6月24日には塔の傍らに李登輝元総統が揮毫された「為国作見證」(お国のために見證をなせ、つまり「お国(公)のために尽力せよ」の意)刻む慰霊碑も建立し、李登輝元総統ご自身が参列して除幕式を行っている。

この塔前にて、今年は13回目となる「台湾戦没者慰霊顕彰祭」が執り行われ、台湾出身の楊馥成氏(日本名: 大井満)なども参列したという。

この模様を産経新聞が伝えている。

ただ残念なのは、台湾出身戦歿者が「戦後は日本人として扱われず、日本政府は補償の対象から外した」とのみ書かれていたことだ。

事実は確かにそのとおりである。

しかし、その後、台湾語研究者で日本に台湾独立建国聯盟日本本部の前身の台湾青年社を設立した王育徳氏により、1975年2月に「台湾人元日本兵士の補償問題を考える会」が設立され、裁判では敗訴するも、有志議員などの働きかけにより1987年9月に「台湾住民である戦没者遺族等に対する弔慰金に関する法律案」が成立し、また戦没者等又は戦傷病者1人につき200万円と定める「特定弔慰金等の支給の実施に関する法律」が1988年4月に制定された。

これにより、1988年から1992年にかけ、日本赤十字社と中華民国紅十字会を通じて台湾出身戦歿者の遺族2万8,147人に特定弔慰金が支払われた。

その総額は562億9400万円にものぼる。

1977年(昭和48年)4月14日に厚生省(現在の厚生労働省)が発表したところによれば、台湾出身戦歿者は3万304人。

つまり、戦歿者の93%にも及ぶ遺族に1人につき200万円の特定弔慰金が支払われたのである。

ちなみに、靖國神社に祀られる台湾出身戦歿者は2万7,864人。

ほとんどの戦没者は中華民国との国交樹立後の昭和30年代半ばにご祭神として祀られている。

戦後、日本はほぼ占領下にあり、台湾の中華民国との国交もなかったので台湾の遺族と連絡できなかった。

1952年(昭和27年)4月にようやく日華平和条約を結んで外菓子交関係が正常化することで遺族とも連絡がとれるようになったことで、ご祭神として祀られた。

だが、戦後10年の空白は大きく、連絡の取れない遺族は多く、結果的に2万7,864人をお祀りすることになった。

それを思えば、特定弔慰金が支払われた遺族は2万8,147人でご祭神数より多い。

いかに日本赤十字社と中華民国紅十字会が奔走して遺族探しに当たったかに思いは及ぶ。

その労を多とする所以だ。

確かに、記事のように恩給や遺族年金などの補償の対象から台湾出身戦歿者やその遺族は外された。

しかし、後に特定弔慰金として約563億円が支払われた。

なぜこのことに産経新聞の記事は触れなかったのだろうか。

スペースの都合があったのかもしれないし、記者はこの事実を知らなかったのかもしれない。

それ以外にも理由はあったのかもしれないが、日本は台湾出身戦歿者や遺族に対してなにもしなかったわけではない。

少ない額とはいえ、弔意を示すけじめはつけていた。

後世のためにも、日台関係のためにもこのことは記しておかねばなるまい。

大事な記事だっただけに惜しまれてならない。


103歳 逝った仲間へ きょう沖縄慰霊の日 台湾之塔で顕彰祭【産経新聞:2025年6月23日】https://www.sankei.com/article/20250622-NS3N5TGNYVIKTK53VT2GNJ4ISU/

沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園の「台湾之塔」では22日、台湾出身の戦没者を慰霊する顕彰祭が行われ、軍属として食糧確保などに従事した楊馥成(ようふくせい)さん(103)が参列した。

「われわれの仲間が先に逝った。

今日は何としても参列しなければいけないという気持ちで来た」。

楊さんは台湾之塔をしみじみと見上げた。

先の大戦では台湾人の軍人・軍属約21万人が動員され、約3万人が戦死、戦病死した。

軍人の多くは志願兵だったとされる。

戦後は日本人として扱われず、日本政府は補償の対象から外した。

台湾出身の戦没者を祀(まつ)る台湾之塔は平成28年に建立された。

30年には李登輝元総統が石碑に「為国作見證(国のために証言する)」との揮毫(きごう)を寄せ、石碑の除幕式にも出席している。

楊さんは式典で、台湾や日本の関係者らを前に「今日はわざわざお越しいただき、英霊たちに代わってお礼を申し上げます」と流暢(りゅうちょう)な日本語であいさつした。

楊さんは大正11(1922)年、日本統治時代の台湾で生まれた。

日本語教育を受け、台南州立嘉義(かぎ)農林学校(現・嘉義大)を卒業。

農林技師になり、戦時中は「大井満」という日本名で旧日本陸軍第7方面軍の補給部隊に配属され、シンガポールで食糧確保の任に当たったという。

◆戒厳令で奪われた言論の自由

復員後は台湾で再び技師を務めたが、大陸から逃れてきた国民党政府が戒厳令を敷くと言論の自由は奪われ、「白色テロ」と呼ばれる市民の逮捕・投獄が横行。

「日本に加担した」といった廉(かど)で多くの人が拷問を受けた。

楊さんも「異端分子」とみなされ、約7年間投獄された経験を持つ。

戦争体験者が減る中、残された世代に伝えたいことについて問われると、楊さんは「戦後、日本の一般国民は、戦争で日本軍が東南アジアや大陸で侵略し、先人たちが悪いことをしたと、自虐的な考えを持っている人がいる」と危惧し、こう強調した。

「だが、そうではない。

東アジアの白人の侵略から何とかして守ろうとした」

(大竹直樹)


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