立国は私なり、公に非ざるなり  渡辺 利夫(拓殖大学顧問)

【産経新聞:2023年4月14日】https://www.sankei.com/article/20230414-Z6KH5ZBIU5LA7K5BVJVZFVE2AE/

 福澤諭吉といえば『西洋事情』において文明開化なる用語を編み出し、『文明論之概略』により維新期日本の欧化政策に大きな寄与をなした啓蒙(けいもう)思想家だというイメージが強かろう。

◆福澤諭吉の思想的立脚点

 しかし、その福澤の思想的立脚点が「立国は私(わたくし)なり、公(おおやけ)に非(あら)ざるなり」(『瘠(やせ)我慢之説』)であったことには留意が必要である。帝国主義列強がアジアを蚕食する一方、中国、朝鮮がこの「西力東漸」の力学をまるで理解できずただ旧套(きゅうとう)の中に閉じ込められて逼塞(ひっそく)している現状を眺め、福澤は公(コスモポリタニズム)ではなく、私(ナショナリズム)の強化こそが「立国の公道」であることを強く訴えたのである。

 福澤によれば、人間は他の生命体と同じくその根本においては私であり、個の私情こそが至上の価値をもつ。同様に外国に対する場合には、必ずや同胞としての私情が湧き出(い)で、国民としての私情、すなわちナショナリズムという「偏頗心(へんぱしん)」が優位を占めなければならない。私情や偏頗心は、普遍としての文明からは隔たるものではあれ、各国民が私情と偏頗心をあらわにしている以上、みずからもこの徳目を重んじなければ国はもたない。そういう主張が福澤のものであった。

 遠い過去に採用された理想主義的な、というより空想主義的な憲法と憲法解釈に身を委ね、自国の防衛に己の身を削ることの少なかったのがわが日本である。

 ロシアの残忍なウクライナ侵攻がなおつづく。中国では台湾併合への野望がにわかに強まり、北朝鮮の核もついに実戦化の段階に入らんとしている。いかにも遅い判断ではあったが、昨年末、国家安全保障戦略に関する安保3文書が閣議決定の運びとなった。軍事力を嫌悪し、外交に過剰な期待を寄せるパシフィズムから脱しようという姿勢を、日本もようやくみせるようになった。

◆これで中国に対抗できるか

 新戦略は、現在の日本が戦後最も厳しく複雑な安全保障環境の只中(ただなか)にあるという認識に立つ。それゆえ力強い外交を展開しなければならないが、同時に「自分の国は自分で守り抜ける防衛力を持つことは、そのような外交の地歩を固めるものとなる」と訴えた。

 大いに評価したいのだが、この戦略を実現するのに必要な基本的原則には「平和国家として、専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国とはならず、非核三原則を堅持する」と旧来のものが踏襲されているではないか。「自分の国は自分で守り抜ける防衛力を持つ」とはっきり記述する一方、他方では専守防衛と非核三原則を堅持すると同一文書の中で述べるのは自己矛盾ではないか。「他国に脅威を与えるような軍事大国とはならず」というのは、平和安全法制成立時の議論の中で何度も繰り返された「必要最小限度」規定と同一のものであろう。これで強大化をつづける中国の軍事力に対抗できるか。

 3文書の作成者もそのことを承知していないはずもないが、これを超えると憲法論議にまで踏み込まざるを得ないがゆえに、旧来のフレーズにとどまらざるを得なかったということであろう。核抑止戦略の方は非核三原則をうたうことによって封印されてしまったかの感がある。

 日本への武力攻撃に対しては「反撃能力」の整備によって対応すると明記されたことは評価されるべきだが、専守防衛、非核三原則、必要最小限度によって確かな反撃能力が担保できるか。

◆大樹の陰に隠れていいか

 この難局にあっては、福澤のいう「私情」と「偏頗心」が不可欠なのではないか。『文明論之概略』の結論部において福澤は次のようにいう。

「目的を定めて文明に進むの一事あるのみ。其(その)目的とは何ぞや。内外の区別を明(あきらか)にして我本国の独立を保つことなり。而(しこう)して此(この)独立を保つの法は文明化の外(ほか)に求む可(べか)らず。今の日本国人を文明に進(すすむ)るは此国の独立を保たんがためのみ。故に、国の独立は目的なり、国民の文明は此目的に達するの術なり」

 個と同様に、国家もまた独立した存在としての自国を他国に認められたいという「自己承認欲求」をもつ。自己承認欲求は、それ自体が個人の人生にとっての目的であり、国家もまたこの欲求に衝(つ)き動かされている(フランシス・フクヤマ『アイデンティティ』)。

 日本という国家は、アメリカによる軍事的庇護(ひご)の下で数十年を過ごしているうちに、ついに通常の国家であれば内に秘めているはずの自己の承認欲求をさえ喪失してしまったのではないか。どう考えてもアメリカの覇権の大樹の陰に身を隠し、密(ひそ)やかにも平穏に打ち過ごすことのできた時代はもはや過去のものなのであろう。安保3文書が閣議決定されてもなお、そうした惧(おそ)れを私は払拭できない。

 幕末から維新期に苦渋に満ちた思考を強いられた先人たちの言説に最も深く学ぶべきは現代の日本人なのに違いない。

(わたなべ としお)

※この記事はメルマガ「日台共栄」のバックナンバーです。


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