私の歴史認識を大転換させた台湾との出合い(2) [元高校教諭 石部勝彦]

「台湾に出合って初めて日本を知った」というケースが、日台関係に関わる人々の中
には少なくない。台湾というフィルターを通して日本を見ると、日本にいて日本を見る
よりはるかに客観的に見えてくるからだ。台湾人の場合は逆のケースが多い。日本に来
て台湾が見えてくるのである。

 そのどちらにも共通しているのが、歴史教育だ。

 日本では、日本は中国や東南アジアを侵略して植民地にしたひどい国だと教えられる。
ある高校の教科書では「日本はいかにして朝鮮・台湾を侵略したか」という見出しさえ
堂々と文部科学省の検定をパスしてくるのが実態だ。ところが、何かのきっかけで台湾
を知り、台湾の人々の親日ぶりなどを知ることで日本の真姿に開眼する。台湾に活眼さ
せられるのである。

 一方の台湾では、蒋介石・蒋経国時代に台湾の歴史は中国史の一部でしかなく、反日
教育が徹底していた。李登輝総統の時代になってようやく台湾史に光があてられるよう
になった。だから、留学生は台湾の歴史を知らないままに日本に来て、ようやく自国の
歴史を知るようになるのである。

 ここに紹介する、高校で世界史を教え、左翼を自認していた石部勝彦氏のケースはま
さに典型的なケースだ。思想に「転向」があるように、歴史認識にもコンバージョン(転
換)があることをよくよく示している。日本の歴史に誇りを持てたことで、人生観が一
変してゆく様は読み応え十分だ。

 中国や韓国、あるいは東南アジアの国々を知ったことで歴史認識の転換が起こったと
は寡聞にして知らない。これは友邦台湾ならではの現象と言えるかもしれない。

 本会会員でもある石部勝彦氏の「私の歴史認識を大転換させた台湾との出合い」は、
「自虐史観」からの脱却を訴えて日本の歴史教育に大きな波紋を広げた自由主義史観研
究会(藤岡信勝代表)の機関誌「歴史と教育」10月号(現在発売中)に掲載されている。
石部氏と同会のご了承の下、ここに分載してご紹介したい。

 なお、読みやすくするため、少し改行していることをお断りします。

                   (メルマガ「日台共栄」編集長 柚原 正敬)

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私の歴史認識を大転換させた台湾との出合い(2)

                             元高校教諭 石部 勝彦

◆日本の台湾統治の実態

 その前に、先ずは日本の台湾統治の全体像を知らなければならないと考え、最初に読
もうとして手に入れた書物が、伊藤潔氏の『台湾』(中公新書)であった。

 実によい本に巡り合ったと思う。この本の副題は「四百年の歴史と展望」となってい
て、台湾の歴史全体及び現在や将来の問題まで要領よくまとめられていた。著者の伊藤
氏は私とほぼ同年代の方で、日本統治下の台湾で生まれ、国民党政権下の教育を受けら
れた後に日本に留学、その後日本の大学で教鞭をとられた方である。

 氏は「前書き」のなかで、〈私には日本の台湾における植民地支配を美化する意図は
毛頭ない。台湾を支配した大日本帝国は「慈善団体」ではなく、その経営が「慈善事業」
でないことは当然であり、「植民地下の近代化」も日本の「帝国主義的な野心」に発し
たものである。しかし、「植民地経営は悪」の観点からすれば、「植民地下の近代化」
は否定され、それを肯定しようとする見解には「反動」のレッテルがつきまとう〉と書
き、「帝国主義は悪」の立場からの歴史叙述を批判されて、〈半世紀に及ぶ日本の統治
は、善きにつけ悪しきにつけ、今日の台湾の基礎を築きあげたといえよう。少なくとも
台湾は、日本の統治で「植民地下の近代化」を成し遂げたことは事実であり、わけても
教育制度の整備と普及は、大書特筆すべきものである〉と、日本の台湾統治を肯定的に
評価していた。

 勿論、〈小著は日本人の読者を対象にしているからといって、日本の台湾統治に対す
る批判を避けたり、遠慮もしていない〉と念を押しているが、これはむしろ有難く、こ
のように客観的に書かれたものこそ私が求めていたものであった。

 さて、私が最初に知りたかったことは、児玉総督の時代がどういう時代であったかと
いうことだったが、これはすぐに明らかになった。

 下関条約によって台湾は清国から日本へ譲渡されたが、日本が台湾を接収しようとし
た時、台湾の住民はこれに対し猛烈な抵抗をしたために、日本は大軍を派遣してこれと
戦わなければならなかった。約半年にわたる掃討作戦の後ようやく平定したが、大陸か
ら移住してきていた中国系住民の抵抗はほぼ収まったものの、「高砂族」と呼ばれるこ
とになる本来の台湾の原住民たちの抵抗は、それからも執拗に続いたのである。

 初代樺山資紀、二代桂太郎、三代乃木希典が総督であった約三年は、まさにこの「土
匪」と呼ばれたゲリラとの戦いに明け暮れていたが、その制圧は困難を極め、これらの
総督による統治は到底成功したとはいえない状況だったという。ところが、この困難な
台湾統治に一大変革をもたらしたのが児玉源太郎四代総督と後藤新平民政長官のコンビ
であった。勿論、武力で抑える方針を変更したわけではないが、それだけでは駄目で、
何よりも民心を掌握しなければならないと考えたのだ。

 伊藤氏はこれを「ムチとアメの併用」と表現しているが、鞭で臨む一方で台湾住民の
心を掴むことに全力をあげていく。後藤長官の持論に「生物学的植民地経営」と呼ばれ
るものがあったという。「ヒラメの目の位置がおかしいといって鯛のようにするわけに
はいかない」というもので、その土地の実情に即したやり方をしなければならないとい
うものである。後藤長官は全力をあげて台湾の実態を調査し、それを基にして統治の方
策を立案したのであった。そしてこのやり方が功を奏し、台湾の統治はしだいに安定に
向かったのだという。

 私は、この児玉総督と後藤長官の時代こそ、日本の台湾統治の基礎が築かれた時代で
あると理解することができた。そして私の祖父がそのことに関わりをもっていたという
ことを知り、実に嬉しく思った次第である。              (つづく)