許昭栄さんを悼む [埼玉 尾形 美明]

昨日届いたある月報に掲題記事が掲載されていました。許昭栄さんについては、私も
最近ある知人から聞くまで知りませんでした。李登輝閣下や蔡焜燦さんなどと同じよう
に、元日本人であり、元日本軍人であった方です。その人生は日本人として教育を受け、
志願された旧日本兵として勇敢であり誠実そのものでありました。筆者は「人間国宝級
の人物」だった、と書いています。以下の通りです。

                                   尾形 美明

■この月報、「歴史と教育」は、本会会員でもある拓殖大学教授の藤岡信勝氏が代表を
 つとめられる自由主義史観研究会の会報です。            (編集部)

 自由主義史観研究会HP http://www.jiyuu-shikan.org/index.html


許昭栄さんを悼む

                       「歴史と教育」編集長 飯嶋 七生

 不覚だった。許昭栄さん(享年80)が、焼身自殺を遂げたと知った時の正直な実感で
ある。許さんの自宅のカレンダーには、5月20日のところに「自決の日」と記してあっ
たという。後悔しても始まらないが、私達は「人間国宝級」の人物を失ったのだ。

 小誌5月号の台湾特集では、許さんが流暢な日本語で綴った文章を引用し、老兵の思
いを紹介したばかりである。2年前、本会の台湾研修旅行でも大変お世話になった。新
たに「台湾プロジェクト」を立ち上げる会議でも、先ず、許さんが主宰されている慰霊
祭に行かなくてはならない、という話しで一致していた。しかし、それを果たせないま
ま、老兵は逝かれた。

 激動の時代、不屈の精神で闘って来られた許さんの生涯を紹介しておきたい。

 許さんは、昭和3年、日本統治下の台湾に生を享け、昭和18年、帝国海軍特別志願兵
として大東亜戦争を戦った。日本の敗戦後、蒋介石軍は彼ら台湾人元日本兵を約15000
人徴発し、大陸に送って国共内戦の前線に立たせた。大陸での戦闘や、共産軍に捕まっ
て朝鮮戦争に送られるなどして、このうち約12000人が亡くなったといわれる。

 許さんは、日本海軍時代に艦艇整備の技術を身に着けていたため、海軍の技術員が不
足していた蒋介石軍にとっては貴重な人材であった。「危険分子」として銃殺されるか、
国民党軍に入るかという二者択一を迫られた許さんは止むを得ず入隊を決意する。

 国共内戦に敗北した蒋介石が台湾に逃れてきた時、許さんを含む台湾出身兵約500人
も故郷に戻った。だが、許さんは軽微な罪で政治犯として10年間、獄に繋がれるなど迫
害を受け、紆余曲折を経たのちカナダに政治亡命を果たした。

 平成3年、台湾の民主化革命により、ようやく帰国が可能になると、大陸に残留した
台湾兵の捜査や帰郷、戦死者の慰霊、補償請求等に全財産を投げ打って驀進される。だ
が、国民党政権下の台湾では、台湾出身兵と外省籍の退役軍人とは明らかな差別がされ
ており、政府は冷淡だった。

 平成16年11月、許さんは自費と同志のカンパで、念願の「台湾人無名戦士記念碑」を
建立した。国民党政権から民進党政権に変わったことに希望を抱かれ、陳総統に慰霊祭
への出席を幾度も懇願したが、その度に断られ、痛憤してされていたという。

 そしてとうとう、本年5月20日、国民党、馬英九総統就任の日、自ら建てた「台湾無
名戦士記念碑」の前で焼身自決を遂げられたのである。台湾では、「台湾無名戦士記念
碑」が、事実上撤去されることが決まり、それに対する抗議の自決だったと断じられて
いた。

 馬政権になって、既に尖閣での衝突があり、日台関係が危ぶまれる時期、許さんら台
湾年配者に活躍して頂きたかった。歴史を見失った日本人を叱って欲しかった。生前、
許さんは「台湾に靖国を作りたい」と仰せだったと聞く。許さんが命を懸けた思いを継
承して行くのが我々の責務であろう。合掌。



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