李登輝前総統にお会いしたい  重冨 亮(愛知李登輝友の会支部長)

【平成19年(2007年)6月10日、6月20日発行 雄飛】

 日本李登輝友の会愛知県支部が昨年6月に設立されて以来の念願だった台湾研修旅行を、5月11日から3泊4目の日程で挙行することができた。参加者は22名。いずれも李登輝前総統を尊敬し、日本の現状を憂い、日台共栄を願う論客である。台湾にはツアー旅行で20回以上訪れている私だが、訪問場所、また道中での皆さんとの懇談は、これまで経験したことがなく、誠に有意義な旅行であった。

◆1日目(5月11日) 台中の宝覚禅寺で慰霊祭

 中部国際空港に午前7時45分集合。結団式で自己紹介後、日本アジア航空で台湾へ向かう。機中、本部事務局長・柚原正敬氏も執筆者に名を連ねている『台湾と日本・交流秘話』を再読。

 台北国際空港では、台湾台日海交会の胡会長以下、会員の方々の歓迎を受けた。海交会は戦後、台湾と日本の交流および亡き戦友の慰霊を目的に元日本海軍として従軍された台湾の皆さんによって設立されたもの。会員全員が純白の海軍略式軍服に身を固め、旭日旗を振っての熱烈な出迎えだった。

 その海交会の皆さんともどもバスで一路台中へ向う。バスの中では、海交会の皆さんのカラオケによる軍歌、戦前のナツメロの熱唱が続く。和やかな交流で大いに盛り上がるうち、台中宝覚禅寺に到着。

 台中宝覚禅寺は、台湾の靖国神社とも呼ばれ、大東亜戦争で戦死した台湾出身の元日本軍人・軍属3万3百余柱と、台湾住民で戦争の犠牲者となった人々の霊が祀られている。

 有末精三氏(終戦時、陸軍中将)の筆になる「英魂観音亭」が建立され、その側に李登輝前総統の筆になる「霊安故郷」の慰霊碑が建てられてあった。その慰霊碑の前で台湾台日海交会の皆さんとともに、手作りではあったが厳かに慰霊祭を執り行った。

 台中宝覚禅寺にはまた、台湾中部で物故した日本人1万4千柱の遺骨を収納、供養している日本人墓地もあり、ボランティアの85歳になる台湾女性が慰霊碑・墓地を守って頂いている。

 実は訪台の機中で読んだ産経新聞に「日本・日本人を大切に思って下さっている台湾女性が宝覚禅寺にいらっしゃった」という、ある女性の感動の体験話が投書として載っていたのだが、まさにその台湾女性のことだったのだ。

 海交会のメンバーの中に、愛知県支部第2回講演会で講師を引き受けて頂いた林建良先生のご尊父、林政徳氏もおられた。文学博士で剣道6段、居合道6段、剣道場の館長を務めておられる。

 胡会長、林政徳氏をはじめ海交会の皆さんと夕食会。日本人以上に日本のことを思い、日本人らしい海交会の皆さんに敬服してしまった。林建良先生の講演の中の「日本の教育を受けて日本語が喋れて、日本人を理解している親父の世代がいなくなったら、日本と台湾の交流はどうなるのか、よく考えて下さい」との言葉を思い出す。 

◆2日目(5月12日) 日月潭観光と友愛会との交流

 海交会の皆さんとともに日月潭(じつげつたん)を観光。噂にたがわぬ景勝地、コバルトブルーの湖面の美しさは、沖縄の海に優るとも劣らない。

 昼食後、台中で海交会の皆さんとお別れする。胡会長のみ台北まで同行。

 台北へ向かう高速道路は大渋滞。聞けば、母の日のため家路を急ぐ車だそうである。日本で母の日のために渋滞など聞いたことがないのは私だけだろうか。

 予定している友愛短歌会の皆さんとの交流の時間が刻々と迫り、当支部の事務局長・唐沢氏も気が気ではないのかしきりと電話をかけるが、結局、友愛短歌会の皆さんとの会食に遅れること1時間半。

 友愛短歌会は会員128名、歌により日本文化の奥深さを知るために設立された。3名の会員と懇談したが、この旅行では、現在の日本人以上に日本人らしい台湾の方ばかりにお会いする。短歌でこの方々に大刀打ちできる日本人がさて、どれだけいるだろう。

◆3日目(5月13日) 二・二八記念館見学と蔡焜燦先生との懇親交流

 午前9時から二・二八記念館見学。元ビルマ派遣7900部隊陸軍軍人であり、新聞記者として二・二八事件勃発時のデモ隊を取材した経験もある蕭錦文(しょう きんぶん)氏の説明を受ける。

 弟を白色テロで槍殺され、ご自身は地獄のビルマ戦線で九死に一生を得た経験を持つ同氏の熱弁は予定時間を大きく超えた。

 午後は自由行動。私を含め行くあてもない7名は、胡会長お勧めの野柳岬を観光。新鮮な海鮮料理を堪能し、自然の造形に驚愕する。

 夕食会は蔡焜燦(さい こんさん)先生をお迎えしての宴。日本統治時代の教育についてお話をして頂く。

 蔡先生が教育を受けられた台中州大甲郡の清水(きよみず)公学校には、昭和10年、新校舎落成と同時に日本に先駆けて放送設備が導入されたそうだ。数百枚購入したあらゆる分野のレコードの内容を、当時の校長が副読本として利用するため、活字にして『綜合教育讀本』を発行。蔡先生は、その読本のありとあらゆるものを頭にたたきこまれたとのこと。

 清水公学校で教育を受けた者として、何とかこの世に残したいとの思いから、その読本を復刻されたそうである。参加者一同、その貴重な復読本を頂戴し、大いに感激した。

 この夕食会には、前日に続いて皆川栄治氏が参加。同氏は台北で経営コンサルタント会社を経営されている。当支部会員倉科氏の取り計らいにより、この研修旅行にご協力頂くことになったのだ。

 日本李登輝友の会本部事務局長の柚原氏、そして皆川氏をはじめ大勢の方々のご尽力で、いよいよ明日こそ李登輝前総統とお会いできるということで、一同気分高揚のまま閉会した。

◆4日目(5月14日) ついに李登輝前総統にお会いできた!

 総統府見学のため午前8時出発。

 総統府はM16カービン銃を構えた憲兵隊に守られている。憲兵隊には身長175センチ以上の者でなければ入隊できないそうだ。M16の弾創の底部には青色の丸いシール。「実弾装填済み」という印だろうか。手荷物検査の廠しさは空港以上。金属探知機のゲートは感度が上げてあるようで、ほとんどの参加者の通過時にブザーが鳴る。

 それでも総統府の一階部分は見学可能で、昨日に続き蕭錦文氏の熱き思い溢れる説明を受ける。

 1940年(昭和15年)の航空写真をもとに、総督府などが米軍によって爆撃されたことを知っておいてほしいと強調された。つまり、開戦前に米軍は対日攻撃の準備に入っていた証明である。

 明石大佐の墓を移動する際、軍刀と長靴が入っていたと聞いた。台湾に骨を埋めた先人の愛を深く学んでいかなければ、と思っているうちに、もう時間である。急ぎ淡水の台湾綜合研究院・李登輝前総統のもとへ向かう。

 予定より30分遅れた時間を心配しつつ、一同李登輝先生にようやくお会いすることができた。興奮と感動と緊張の中、台湾の歴史を三つの時代に分けてお話し頂いた。李登輝先生は、日本の統治は近代化社会の実現に向けて価値あるものだったこと、華僑の文化から抜け出し、台湾意識の醸成に大きな成果を挙げた時代であったと話された。(内容は別掲)

 お話の後、質疑応答が行われ、その中で李登輝先生は5月30日から6月9日にかけて訪日。奥の細道を辿る「文化と感性の旅をしたい」と言われ、一同歓迎の意を表した。

 念願の李登輝前総統との面談も無事終わり、われわれの台湾での研修も終了となる。その夜日本に帰国、わずか4日間ではあったが、濃密な時間を過ごした、

 愛知県支部の設立に向けた会合の際、「設立後は支部の研修旅行として台湾を訪問し、李登輝前総統にお会いしよう」と話し合ったのだが、本当に実現できるとは。これも本部の柚原事務局長をはじめ大勢の方々のご尽力の賜物。心から感謝している。

 また、研修旅行に参加して頂いた皆さんとの出会いも、今後の支部活動を進めるに当たり、勇気を与えて頂いた愛知県支部は、今後とも日台共栄を目指して活動を続ける。どうかご指導頂きたい。(了)

—————————————————————————————–日本がアジアのリーダーに

                                           李登輝前総統

 台湾の近代歴史は3つの時代に分けられる。1つは1895年から1945年まで。2つ目は1945年から1990年まで。3つ目が1990年以降。

 第1の時代は、近代社会に邁進する時代。全身全霊で取り組んだ。1908年には鉄道建設、嘉南大[土州]の大農業地帯をつくり上げたのもこのとき。台湾製糖等の産業育成、司法制度の確立もなされた。1897年には総督府国防学校建設。文学・美術・音楽などにおいて華僑の文化束縛から抜け出した時代である。教育大改革の時代、それまでは科挙の制度。これでは数学も音楽も学ばず、近代化についていけない。

 この時代は華僑文化から離れ、台湾人に台湾意識が芽生えたとき。理念が力となっていく時代だった。この時代を見直そうと、後藤新平の見直しが近年なされている。

 先日、日本で後藤新平賞が設けられ、その第1回受賞者に私が選ばれ、非常に嬉しく思っている。

 第2の時代は、中国人の観点から国民を支配しようとした時代。日本語の取り締まり、反日政策、日本を知らなくする政策が徹底してとられた。勤勉さや責任感などといった価値観が崩され、日本を知らない時代となった。

 数万人の犠牲者を出した二二八事件やその後の五〇年代の白色テロ。政治に口を突っ込む勇気を奪い去った。口が開けない、堂々と意見を言えない、いつなん時会話を聞かれているかわからない。そんな国民党のワンマン独裁政治が徹底してなされた。

 戒厳令が38年間も敷かれた。こんな例は世界のどこにもない。司馬遼太郎先生との出会いの中で「台湾人に生まれた悲哀」としてあらわされた世界だった。

 第3の時代は、万年国会から人民による総統直接選挙がなされ、民主的な一つの主権国家が築き上げられた時代。台湾支庁はないし、憲法は変わった。まだ第4条の領土の規定が残ってはいるが…。

 大陸を台湾の領土として国民に教えるのは現実的ではない。しかし、大陸の一省としての存在ではない。終身国会議員などは不適切。「正名運動」を通して、台湾人として自らを意識する国民が60%を超えるところまで来たが、まだまだ。これを80%、90%に引き上げなければならない。台湾人としてのアイデンティティをつくり上げなくてはならない。

 しかし、わざわざ独立を言う必要はない。中国とは国と国との関係。名前は台湾か台湾共和国か呼び名は別にして、実態は主権ある国家として存在している。「屈してもなおやまず」の台湾精神を持って、台湾の時代を変えていかねばならない。

 日本文化の特徴は武士や大和魂を基にした高い精神性にある。公に忠誠をつくす。危機にあってはおのれの身を捧げることをいとわない高貴な精神である。「板垣死すとも自由は死せず」あの板垣退助が遊説中の岐阜で凶変に遭った時、後藤新平はすぐに駆けつけた。医者であったから。正しきことの実現には生死すら問わない。この精神の高さこそ目本文化である。志のみならず、知恵を絞ってやる気を出させながらのみごとな統治。

 さらに1つは、自然の中で育まれた情緒の豊かさだろう。人の生活全てに、人としての道を見出す。口であげつろうのではなく、生活にそのまま反映させる。華道も茶道も日々の立ち居振る舞いを芸術の世界にまで高めている。

 旅にせよ、感動を詠みつづり行く芭蕉の「奥の細道」の世界は情緒豊かな芸術の世界。今回の訪日も「奥の細道」をめぐって、芭蕉の求めた風雅の道をたどってみたい。

 アジアはそんな日本が指導権を握らねばならない。2007年以降は、世界情勢は大いに動くだろう。そのときこそ、新しいりリーダーシップが必要である。日本の存在がいよいよ重要になってくる。

【平成19年5月14日 文責:愛知李登輝友の会】

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