李登輝先生「奥の細道」探訪記念句碑を建立して(下) [相沢 光哉]

本年6月8日、本会の宮城県支部(嶋津紀夫支部長)と宮城県日台親善協会(相沢光哉
会長)の共催により、宮城県松島の国宝、瑞巌寺境内に李登輝元総統の句碑が建立され
た。李氏の句碑は日本初となる快挙だった。

 昨年の来日で瑞巌寺を訪問した李氏もこの建立を大変喜ばれ、自ら筆を執って墨痕鮮
やかに自作の句と曽文惠夫人の句を原寸大で大書し、また除幕式当日には懇篤な祝辞も
寄せられた。

 その模様は6月13日発行の本誌第792号でもお伝えしたとおりだが、この句碑建立の発
案者で、本会理事の相沢光哉氏(前宮城県議会議長)が責任役員をつとめる仙台市内の
大満寺(曹洞宗)の「大満寺たより」(平成20年9月20日発行、NO.28号)に、「なぜ句
碑を建立したのか、芭蕉と李登輝氏はどういう関係なのか、そもそも李登輝氏とはどう
いう人物なのか」など、建立に至る経緯やその意義について詳しくつづられている。

 いさかか長いものなので、本誌では2回に分けてご紹介したい。

 相沢氏は「松島の風景に溶け込む新たな千歳の形見として、後世に伝えられることを
心から期待していきたい」とこの一文を結んでいる。その思いは本会関係者ばかりでな
く、日台の「千歳」の共栄を願う人々にとっては共通の願いであろう。

                                   (編集部)


李登輝先生「奥の細道」探訪記念句碑を建立して(下)

                          大満寺責任役員 相沢 光哉

■松尾芭蕉と李登輝氏の詩魂と霊性が邂逅する松島

 「月日は百代の過客にして」で始まる『奥の細道』の名高い冒頭部で、芭蕉は「松島
の月先ず心にかかりて」と、みちのく路を辿る重要な動機の一つが松島であることを吐
露しています。そして、『奥の細道』の紀行文で一、二を競う名調子で、松島の絶景を
「扶桑第一の好風」と賞賛しましたが、残念ながら松島を題材にした俳句は作りません
でした。

 この「奥の細道」の探訪を長年の悲願とし、ようやく実現にこぎつけたのが李登輝氏
でした。芭蕉は、たとえわが身が路上の露と消えようとも厭わない覚悟で、みちのくの
歌枕の名所を尋ねようとし、それを成し遂げ、『奥の細道』という名著を書き残しまし
た。李氏の芭蕉に対する深い思い入れは、『奥の細道』の全文をほとんど諳んじている
ことにも見られますが、それは単なる追慕に止まりません。他日、李氏は「奥の細道」
探訪が実現したことの感想を求められた際、「奥の細道に代表される自然と調和してき
た日本独自の文化、そしてそこから生まれる高い精神性で、日本は世界に貢献してほし
い」という含蓄のあるコメントを発しています。李氏の心情は、高い精神性で芭蕉に迫
っていることを感じます。それはあたかも、芭蕉がいにしえの放浪歌人西行の詩魂に心
を寄せていたことにも通じるのです。

 つまり、俳諧のエッセンスを「不易流行」に求め、わずか十七文字の短詩という文芸
形式の中に真の精神の高みを完成させた芭蕉と、日本の武士道精神を高く評価し、自然
に対する日本的な感受性を尊ぶ李登輝氏とが、時空を超え、歴史を貫いて、それぞれの
詩魂と霊性の邂逅を果たした場所が、松島であり、瑞巌寺であったのではないでしょう
か。

 ちなみに、芭蕉は松島を訪れる前に、多賀城の壷の碑を見て「疑いなき千歳の記念、
今眼前に古人の心を閲す」と感涙の言葉を残し、塩竈神社では和泉三郎(平泉藤原秀衡
の三男、忠衡)が寄進した文治の宝燈に接し、父秀衡の遺言を守り源義経に味方して兄
泰衡に謀殺された忠衡を「勇義忠孝の士」と褒め称えています。もちろん、李登輝氏は
今回の旅程で芭蕉が見た同じ実物を、しっかり目にとどめています。

 日本文学の権威ドナルド・キーンによれば、『奥の細道』で芭蕉は、例えば「夏草や
兵どもが夢の跡」の名句に見られる「国破れて山河あり」の感慨にあっても、山河=自
然の永続性を疑い、否定しているといわれています。そして、壷の碑や文治の宝燈のよ
うに、古人が自らの手で形として残してきたものにこそ、幾百霜を隔てた過去・現在・
未来を貫く永続的な価値がある、と芭蕉は考えたと指摘しています。当然ながら、瑞巌
寺のように先人が苦心して築き上げた建造物、『奥の細道』のように伝承していく貴重
な書画文物にも、同じ価値が認められましょう。

 一方、李登輝氏は、前述のように『奥の細道』に代表される日本の豊かな自然の美し
さの中に、日本独自の文化と精神性が宿っていると述べています。しかし、この二人の
考えは、相対立するものでもなければ、矛盾するものでもありません。何故ならば、自
然も人工物も、長い時間の経過の中で渾然一体となって調和しているのが、日本そのも
のの姿であるからです。

■国宝瑞巌寺に李登輝氏の句碑を建立する理由

 現在の国宝瑞巌寺は、慶長14年(1609年)仙台藩祖伊達政宗公が全面改修の造営を命
じたことによって、今日の姿に至っていますが、開創は平安時代の初期天長5年(828年)
慈覚大師によると伝えられる奥州の名刹です。芭蕉が訪れたのは元禄2年(1689年)で
すから、政宗公造営後丁度80年目に当たります。『曾良旅日記』によれば、芭蕉・曾良
主従は「瑞巌寺に詣で、残らず見物」し、開山法身和尚、中興雲居和尚や無相禅岩窟に
も言及しています。芭蕉にとって瑞巌寺は松島の景色と同様、心に深く印象づけられた
訪問先であったに相違ありません。

 そして李登輝氏は、初夏のみずみずしい青葉のもと、瑞巌寺本堂や庫裡をつぶさに参
観したあと、松島の印象を直截に詠み込んだ秀句を発表しています。

 私達は、李氏の松島での句作を何とか形に残すことはできないだろうか、と考えまし
た。そして、さいわいにもその思いは結実しました。

 李氏の『奥の細道』探訪の事跡を末ながく記念し、百代の過客にわたる日台友好親善
の隆昌発展を祈念しての句碑建立事業が、日本李登輝友の会宮城県支部、宮城県日台親
善協会が中心となって動き出して一年、めでたく完成を見る運びになったことはまこと
にご同慶に堪えません。

 今回の句碑建立は、李氏の「奥の細道」への熱い想いに呼応する多くの協賛者の方々
のご好意と、何よりも境内地に建立を認めていただいた瑞巌寺吉田道彦老師の温かいご
理解に基づいております。改めて、発起人として深甚な感謝と敬意を表させていただき
ます。

 たまたま国宝瑞巌寺は、文化庁の強力な後押しによって、これからほぼ10年をかけ平
成の大修理に入ります。古人の残した貴重な文化財を、創建時の良好な状態を保ったま
ま、天変地異の過酷な試練を乗り越え、後世に伝えていく現代日本人の意志が結集した
大事業であります。

 松尾芭蕉と李登輝氏の詩魂と霊性が句碑を通じて交流するとすれば、その建立地は、
『奥の細道』松島の段を記す石碑に列する瑞巌寺境内西端の場所が最もふさわしい、と
考えました。なお、句碑建立は、特別名勝地区松島のため文化庁の正式な許可を得て、
9月中に完了となります。

 李登輝氏の句碑が、平成の大修理によって末ながくその荘厳なたたずまいを残す大伽
藍の一隅にあって、松島の風景に溶け込む新たな千歳の形見として、後世に伝えられる
ことを心から期待していきたいと思います。

          【平成20年9月20日発行「曹洞宗 大満寺護持会たより」NO.28号】



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