は、昨日で22回目を迎えたが、昨日は台北高校出身の李登輝元総統を取り上げて紹介して
いた。通常、1人で連載の全紙面を飾ることはないが、やはり李元総統は特別のようだ。本
会が提供した写真も掲載している。
執筆は、文化部編集委員の喜多由浩(きた・よしひろ)記者。昨年、「歴史に消えた唱
歌」(全14回)を連載してやはり好評を博したが、その第2弾だ。
なお、李元総統の台北高校の入学年について、伝記などでは昭和15(1940)年としてい
るものが散見されるが、正しくは昭和16(1941)だ。台湾で出版されている國史館編『総
統照片集』を参照されたい。それをまとめると以下のようになる。
1937年(昭和12年)4月
台北国民中学校に入学。翌年、淡水中学校(現在の私立淡江中学)に転学。
1941年(昭和16年)3月
淡水中学校を4年で修了し、台北高等学校文科甲類に入学。
1943年(昭和18年)8月
戦時下のため台北高等学校を繰り上げ卒業。
1943年(昭和18年)10月1日
京都帝国大学農学部農業経済科に入学。
なお、本会台北事務所のブログでは、平成19(2007)年6月、奥の細道探訪の旅の折、ホ
テルオークラで開かれた歓迎会の席上、壇上で台北高校校歌をOBと一緒に歌う写真も掲
載してこの記事を紹介している。
◆台北事務所ブログ
http://twoffice.exblog.jp/19795462/
旧制高校 寮歌物語(22) 日台の懸け橋となった同窓の誼
文化部編集委員 喜多 由浩
【産経新聞:平成25(2013)年1月6日】
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130106/art13010608180003-n1.htm
写真:台北高時代の思い出を語る李登輝氏=台湾・淡水(喜多由浩撮影)
写真:台北高1年の李登輝氏(右)。淡水中時代の友人と=1941年、台北(李登輝氏提供)
写真:台北高OBらと校歌を歌う李登輝氏=平成19年6月、東京都内のホテル(日本李登輝
友の会提供)
◆校歌の一節をスピーチに
台北高等学校(旧制)の同窓会は、東京と台北にある。昨年10月、日台双方の卒業生ら
約80人が台北に集まり、台北高の創立90周年を祝う記念大会が行われた。日本から出席し
た元最高裁判事、園部逸夫(いつお)(1929年〜、台北高・四高−京大)によれば、「み
んなで一緒に校歌や寮歌を歌い、大いに盛り上がった」という。
園部と同じテーブルに、台湾の元総統、李登輝がいた。終戦の年(昭和20年)に台北高
校へ入学した園部から見れば4期上の先輩に当たる。スピーチに立った李登輝は、20年前の
70周年のときと同じように、高等科設置時の校長・三沢糾(ただす)(1878〜1942年)が
作詞した第一校歌『獅子山頭に雲みだれ』の4番の歌詞を引用した。≪ああ純真の意気を負
ふ 青春の日は暮れやすく 一たび去ってかへらぬを など君起(た)ちて舞はざるや
いざ手を取りて歌はなむ 生の歓喜を高らかに≫
そして、こう呼びかけた。「第一校歌のこの一段を繰り返し、われらの古き関係を新た
にしつつ、日台の心と心の絆を築いていきましょう。(中略)そしてさらに母校−台北高
の『自由と自治』の素晴らしい伝統を永遠に伝えてゆくことを心から願うものであります」
台湾に、近代教育制度を根付かせたのは日本である。公学校(小学校)、中学校、実業
学校。そして、台北高、台北帝国大学をつくり、台湾人にも高等教育を受ける機会が開か
れた。ただし、それは極めつきの「狭き門」であった。
台北高の定員(高等科)は文科、理科2クラスずつ(1クラスの定員は40人)の計160人。
李登輝の記憶によれば、このうち台湾人は、文科のクラスでは4、5人。最も多い理科乙類
(医師を目指すコース)でも十数人しかいない。入学試験には台湾中の秀才が集まり、し
のぎを削ったのである。
「ボクは11歳のとき、父に小学館の児童百科事典を買ってもらい、それを朝から読んで
いるような子供だった。知識が豊富で我(が)が強く、学校の友達では相手にならない。
古事記や源氏物語も中学のときに読んでしまっていたから(台北高の)入試の国文・漢文
は百点。先生もビックリしたそうだよ」
◆厳しく愛情にみちた時間
李登輝にとって、台北高での学生生活は「厳しくとも愛情に満ちた時間」であった。
多くの旧制高校の生徒がそうであったように、猛烈な勢いで古今東西の古典を読破し、
先哲との対話によって思索にふけり自分の内面と向き合った。「死」とは何か、「人生」
とは、「李登輝」とは…。
中でも、人生において大きな影響を受けた本が3つある。トマス・カーライルの『衣裳
(いしょう)哲学』、ゲーテの『ファウスト』、倉田百三の『出家とその弟子』。そして
その先には、新渡戸稲造の『武士道−日本の魂』との出合いがあった。新渡戸に強く惹
(ひ)かれた李登輝は、やがて、彼と同じく農業経済学を志すことになる。
「高等学校では他ではできない勉強ができたように思う。自分の内面と向き合い、自分
の心を客観的に取り出す。それは、その後のボクの人生の糧になるような『人間を作り上
げる』最初の時間だったんだ。先生方も一流ぞろいだったね」
こうした濃厚な時間を共に過ごした台北高の恩師や仲間たちは李登輝にとって特別な存
在だ。平成19年に来日し東京都内で歓迎の会が開かれたときには、東京の同窓会「蕉葉
(しょうよう)会」のメンバーが壇上で歌う『獅子山頭に雲みだれ』の輪に突然、李登輝
が加わるハプニングがあった。「仲間意識は強いね。会うとたちまち“昔のまま”に戻っ
てしまうんだよ」
90周年の記念大会ではこんなことも語っている。台北高時代には日台のクラスメートの
間に民族的な微妙な心理が存在していたものの自由、自治の学風によって、こうした矛盾
を超越して学校生活を送ったこと。「あの時に確立した誼(よしみ)はその後も絶えるこ
となく続き、今日の台湾と日本の交流の懸け橋になっております」と。
◆「リーダー」がいない日本
旧制高校のように人間形成を重視した教育や武士道精神に基づく道徳心…。李登輝は、
かつて身をもって体験した「日本の教育」や「日本の精神」を高く評価している。それは
今も変わっていないのだろうか。
「東日本大震災の日本人の態度には、世界中の人々が頭を下げました。混乱の中でも秩
序を守り、互いに思いやる心を忘れなかった。今の若い人たちの中にもこうした『日本精
神』を持っている人たちがいる。ただね、今の日本には『リーダー』がいない。20年近く
もデフレが続き、その間に10人以上の首相が代わった。安倍さん(晋三首相)も古い自民
党の体質に縛られてしまうとダメですよ」
李登輝は、国のリーダーは2つのことだけを考えていればいい、と思う。『国家』と『国
民』のために奮闘することだ。「個」の利益ではなく「公」の利益のために行動し、高い
精神性と大局観を持った人物だ。
「戦争が終わって、アメリカは日本の軍閥を潰し、財閥を潰し、そして学閥を潰した。
つまり、旧制高校−帝国大学というリーダーを養成する制度です。リーダーを養成する教
育システムは、アメリカにもイギリスにもある。1つ2つでいい。国のリーダー養成を専門
に行う学校を作っておくべきだろう」
李登輝は、かつての旧制高校を復活させよ、と主張しているのではない。その精神を生
かしながら別な形でリーダーを作り上げる学校を設ける。一般の学校ではやらないような
カリキュラム、たとえば軍事関係を勉強したり訓練を課したり。もちろん幅広い教養やス
ポーツも身に付けさせる学校だ。
台湾ではいま、日本の旧制高校の教育や精神を見直す機運が出てきている。それは李登
輝にとってもうれしいことだ。日本から修学旅行の高校生が来ると、「日本の良さ」や
「かつて台湾で日本がやった仕事」について教えることにしている。日本の学校では、ほ
とんど教えないことだから、高校生たちはビックリするという。
「今の日本の教育は、自虐的で日本の良さを教えていない。歴史は歴史、ありのままで
いい。いい悪いではないんだよ」
=文中敬称略(台湾・淡水で 文化部編集委員 喜多由浩)
◇
<り・とうき> 1923(大正12)年、日本統治時代の台湾・淡水郡出身。淡水中学(旧
制)を経て、41年、台北高等学校(旧制)文科甲類入学。43年、京都帝国大学農学部農業
経済科入学。同年、学徒出陣で陸軍入隊。戦後、台湾へ戻り、台湾大学に編入学。その
後、台北市長などを経て、88年、総統に就任。2000年まで12年間務め、台湾の民主化を進
めた。
台北高等学校(旧制)
1922(大正11)年、日本統治下の台湾・台北に、外地の高等学校としては初めて設立され
た。7年制(尋常科4年、高等科3年)で、台湾人生徒は全体の約2割、医学部進学を目指す
理科乙類に多かった。終戦にともなって台北高は廃校となり、台北高級中学に改称。校舎
は現在、台湾師範大学となっている。主な出身者に、作家の邱永漢、大原一三元農水相、
小田滋元国際司法裁判所判事など。外地の旧制高校はほかに旅順高(関東州)があっただ
け。