李登輝元総統がめざしたこと  早川 友久(李登輝元総統秘書)

 李登輝元総統の一周忌を7月30日に迎えることから、日本台湾交流協会は7月16日に李元総統秘書の早川友久(はやかわ・ともひさ)氏へインタビューを行い、8月30日に発刊した『交流』8月号に掲載しました。

 4本の小見出し(「李登輝元総統逝去からの一年を振り返って」「間近で見た李登輝元総統」「李登輝元総統が日本人に伝えたかったこと」「李登輝元総統の意志をどのように継承していくか」)から分かりますように、早川氏が秘書として仕えた8年間を振り返りつつ、李登輝基金会の今後の展望について話しています。

 本会会員や本誌読者の皆様には、早川氏の著書『李登輝─いま本当に伝えたいこと』や『総統とわたし─「アジアの哲人」李登輝の一番近くにいた日本人秘書の 8 年間』などを通じてすでに知られている内容もありますが、李元総統が戦後、台湾大学の学生時代に反米学生デモに学生リーダーの一人として参加していたことなど、初めて明かされるエピソードも紹介しています。

 また、早川氏は「自分がお仕えした 8 年間は、李登輝元総統が一貫して目指してきた『台湾は台湾として存在し続ける』との方向性がより一層明確になった 8 年であった」と述べ、李元総統の真意ともいうべき考えについても言及しています。

 李元総統は「台湾を台湾として存在させる」ことをもっとも重要なポイントと捉え、そこから台湾人アイデンティティを高めつつ、台湾の民主化を始めていったと言えそうです。そのためには「日本の協力が不可欠」と考えられていたようです。

 一見すると「台湾ファースト」のように見えますが、李登輝元総統は「台湾と日本は運命共同体」とも述べられてたことに思いを馳せれば、単純な「台湾ファースト」でないことは容易に分かるかと思います。

 李登輝元総統は「財団法人李登輝基金会」の董事長(理事長に相当)でした。亡くなられて後を継いだのは次女で副董事長だった李安[女尼]さんですが、本誌で詳しくお伝えした李登輝図書館の設置など、李登輝基金会の今後の展望にも言及しています。

 紙数の都合で割愛されたのかもしれませんが、本会の「日本李登輝学校台湾研修団」も復活させることも李登輝基金会の今後の展望に含まれています。

 なお、『交流』8月号のインタビューの見出しは「早川友久・李登輝元総統日本人秘書インタビュー」でしたが、本誌では「李登輝元総統がめざしたこと」としたことをお断りします。

—————————————————————————————–早川友久・李登輝元総統日本人秘書インタビュー【日本台湾交流協会:『交流』8月号 台湾魅力発信vol.6】慶應義塾大学 SFC 研究所上席所員 寺山学(元日本台湾交流協会台北事務所総務室長)https://www.koryu.or.jp/Portals/0/images/publications/magazine/2021/8月/2108_02terayama.pdf

 2018 年から 2019 年にかけて『交流』において連載した「台湾魅力発信」シリーズを今号より再始動。台湾各界において影響力のある方々を取材し、政治、経済及び文化など様々な分野から見た台湾の魅力について発信していきます。今号では、昨年 7 月 30 日に逝去された李登輝元総統の日本人秘書として、8 年にわたり李登輝元総統にお仕えされた早川友久氏を取材。側近として間近で接してこられた李登輝元総統の素顔や李登輝元総統が生前日本人に伝えたかったこと、そして李登輝元総統の遺志を継ぐ財団法人李登輝基金会の今後の活動などについてお話を伺いました。

・インタビュー実施日  2021年7月16日・インタビュー実施場所 財団法人李登輝基金会

早川友久氏略歴

1977 年、栃木県足利市生まれ。早稲田大学卒。2002 年、台湾を初訪問した際に目撃した台湾の選挙活動に感動を覚え、台湾に対する関心を抱く。同年発足した    「日本李登輝友の会」の青年部長に就任。2003 年、金美齢(元総統府国策顧問)事務所秘書に就任。2007 年、台湾大学法学部へ留学。この間、李登輝チームの一員として活動。2012 年、李登輝事務所秘書に就任。以後 8 年にわたり日本担当の側近として李登輝元総統の活動を支えた。

著書に、『李登輝 いま本当に伝えたいこと』(ビジネス社)、『総統とわたし─「アジアの哲人」李登輝の一番近くにいた日本人秘書の 8 年間』(ウェッジ)、『オードリー・タン 日本人のためのデジタル未来学』(ビジネス社)、翻訳書にオードリー・タン著『オードリー・タン デジタルと AI の未来を語る』(プレジデント社)

◆李登輝元総統逝去からの一年を振り返って

─ 李登輝元総統の逝去から、まもなく一年となりますが、この間を振り返ってどのように感じますか。

早川氏まもなく一年となりますが、今振り返っても、李登輝という人間の下で学ぶことができたのは、自分にとって大変な財産であり、また秘書としてお仕えした 8 年間は本当にかけがえのない経験であったと感じます。実際、李登輝元総統が逝去された際の各国メディアの報道振りは、自分の想像を遥かに超えるものでした。台湾や日本だけでなく、世界中のメディアで大きく取り上げられ、逝去のニュースが世界を駆け巡ったことを目にし、改めて李登輝元総統が如何に世界で尊敬され、愛されていたのかを強く実感しました。

─ 台湾人の中には、李登輝元総統の逝去によって、李登輝元総統が台湾にもたらした民主主義の遺産の大きさを再  認識したと話す人もいます。

早川氏李登輝元総統は、台湾の民主化後に逝去された初めての総統(注:総統としての実質的な権限を持たなかったとされる嚴家淦(げん・かかん)元総統は1993 年に逝去)となりますが、李登輝元総統が亡くなられた後の台湾社会の動静は、李登輝政権を経て台湾が民主化した、或いは民主主義が台湾社会に深く根付いたことを如実に示すものとなりました。具体的には、まず言論の自由が挙げられます。過去の総統の逝去時とは異なり、李登輝元総統が逝去された時には、その功績を評価する言論とともに、李登輝元総統を直接批判する様な言論も一部で見受けられました。こうした権力者に対する批判が許容される、言論の自由が担保される社会となったのは、正に李登輝政権の成果なのだと思います。

また、過去の総統の逝去時には、国が国民に喪に服すことを強制し、それによって市民生活に大きな影響が生じていました。1988 年に蒋経国元総統が逝去した際は、台湾人である自分の妻も学校の指示で、蒋経国元総統の遺体が通過する沿道で跪くことが強制されました。それが、李登輝政権を経た今日の台湾では、李登輝元総統が亡くなられても、国が国民に喪に服すことを強制することもなければ、学生に跪くことを強制するようなこともなくなったのです。

さらに重要な変化として、かつての権威主義時代においては、総統が亡くなると、一般市民は「この先この国はどうなってしまうのだろうか」との強い不安を感じることが常でありましたが、李登輝政権を経た今日の台湾では、元総統が逝去しても、国家機能や民主主義が正常に機能し、市民の日常生活は至って平穏なままです。これこそ李登輝元総統が目指した民主主義台湾のあるべき姿なのだと思います。つまり、元首が亡くなっても、台湾は台湾として存在し続けるのです。

◆間近で見た李登輝元総統

─ 早川さんが李登輝元総統の秘書を務められた 8年間は、ひまわり学生運動や民進党政権の発足など、台湾情勢が  目まぐるしく変化し、台湾人の間で中国大陸との関係拡大への拒否反応や台湾人意識が急速に高まった 8 年間  であったと思います。こうした台湾をめぐる情勢の著しい変化を李登輝元総統はどのようにご覧になっていたと  考えますか。

早川氏自分がお仕えした 8 年間は、李登輝元総統が一貫して目指してきた「台湾は台湾として存在し続ける」との方向性がより一層明確になった 8 年であったと思います。実際、国立政治大学選挙研究センターが毎年行っている調査結果からも明らかなとおり、この間に多くの台湾人が中国との間で距離を感じるようになり、台湾人アイデンティティが一層の高まりを見せました。その意味で、李登輝元総統は、かつて中華民国を「外来政権」と表現しましたが、中華民国という名称は別にしても、実態面では「台湾は台湾として存在し続ける」状況が着実に進展したと言えるのだと思います。実際、李登輝元総統は、蒋介石時代の「中華民国来台湾(中華民国が台湾に到来)」を「中華民国在台湾(中華民国は台湾に在る)」へと方向転換させましたが、現在の蔡英文時代においては、更に一歩進んで「中華民国是台湾(中華民国は台湾である)」へと深化しているようにも見受けられます。

─ 李登輝元総統は、総統在任中に生じた「野百合学生運動」や 2014 年の「ひまわり学生運動」など学生の政治運  動に対して同情的であり、また日本との関係でも学生との交流を特に重視されていましたが、李登輝元総統が日  台の若者に対して期待することは何であったと考えますか。

早川氏李登輝元総統には、「人間生まれてきたからには、公のために尽くすべき」との強い信念があり、若者に対しても「公のことを考えて欲しい」との思いを抱いていました。実際、李登輝元総統がかつて農業経済を専攻したのも、幼少期、地主であった実家に毎年小作人たちが「来年もお願いします」と出向いて来る光景を目にし、何故同じ人間なのにこれほどの格差が生まれるのか、苦しんでいる農民の手助けとなりたいと考えたことが契機となっています。だからこそ、将来の台湾を担う若者には、自身と同じように公のために尽くす志を持って欲しいと願っていたのだと思います。

 学生との関係で特に印象に残っているのは、「ひまわり学生運動」が起こった際、運動に参加した学生たちを熱心に支援していた李登輝元総統の姿です。実は、あまり知られていませんが、李登輝元総統自身にも学生時代にデモに参加した経験があります。戦後、李登輝元総統が台湾大学に編入した後の 1947 年のことですが、北京大学女子学生暴行事件(注:1946 年 12 月24 日に当時北京大学に所属していた女子学生が、米兵によって暴行を受けた事件。事件後、北京のみならず天津、上海、南京など中国各地で反米デモが勃発し、台北でも学生によるデモが行われた)に端を発した反米学生デモに学生リーダーの一人として参加していたのです。そうした自身の経験があるからこそ、総統在任中に直面した「野百合学生運動」や 2014 年の「ひまわり学生運動」に同情し、現状を変革しようとする学生たちの積極的な姿勢に期待を寄せたのだと思います。

また、李登輝元総統は、日本の若者との交流の機会を大変重視していました。日本の若者が面会を希望すると、志を持つ日本の若者を激励したいと言って、どんなに忙しい時期でも進んで面会に応じていました。今振り返って、自分が印象深く覚えているエピソードは、ある時、李登輝元総統と面会した日本の若者が、「日本の若者は政治に関心を持っていないが、若者の政治への関心を高めるにはどうしたらいいか」と質問したのですが、李登輝元総統は大変驚いた様子で「そうなのか。日本の若者は政治に関心を持っていないのか」と逆に質問を返していたことです。李登輝元総統との面会を望む日本人の若者は、一様に高い志を持つ若者ばかりであったことから、日本の若者が政治に無関心だというのはどうしても信じられなかったのだと思います。

◆李登輝元総統が日本人に伝えたかったこと

─ 2018年6月に行われた沖縄訪問は、李登輝元総統にとって最後の訪日となりました。当時、健康状態の悪化が伝え  られる中での訪日でありましたが、李登輝元総統がそれほどまでに沖縄訪問にこだわった背景には如何なる思い  があったと考えますか。

早川氏当時、体調不良を押してまで訪日した背景には、李登輝元総統の「執念」のようなものがあったと感じます。そもそも、2018年の沖縄訪問は、「台湾人戦没者慰霊碑に揮毫して欲しい」との依頼を受けた李登輝元総統が、「揮毫だけでなく、自ら訪問したい」と主張され、急遽決まったものです。ただ、訪日直前に入院するなど、当時健康状態は芳しくなく、関係スタッフも訪日の断念を検討すべきだと考えていましたが、当の李登輝元総統は「どうしても訪日したい」と譲らず、最終的に本人の意思を尊重し、訪日を決行することとなったのです。

この李登輝元総統の「執念」とは、第二次世界大戦で日本人として国のために戦った台湾人戦没者を慰霊したいという李登輝元総統の一貫した思いです。これには戦争で犠牲となった兄李登欽さんの影響があるのかも知れません。こうした強い思いがあったからこそ、李登輝元総統は台湾人戦没者慰霊碑の除幕式に自ら出席することを譲らなかったのだと思います。実際、李登輝元総統が、「摩文仁の丘(糸満市平和記念公園)には、朝鮮人や他国の戦没者慰霊碑はあるのに、台湾人戦没者の慰霊碑は存在しない。何としても台湾人戦没者の慰霊を実現しなければならない」と話されていたのを印象深く覚えています。

─ 李登輝元総統が日本人を前に行った最後の講演となった 2018 年の台北市日本工商会主催の講演会では、ステー  ジを去る直前に再度マイクを握り、「皆さん、日本と台湾のために奮闘しましょう」と呼び掛けられていたのを  印象深く覚えています。これが日本人に向けた最後の言葉となりましたが、李登輝元総統はどのような気持ちで  この講演に臨まれたのでしょうか。また講演を通じて日本人に何を伝えたかったのだと考えますか。

早川氏今振り返っても、李登輝元総統は日本人に対して本当に特別な接し方をされていたと感じます。この時の講演も、先ほどの沖縄訪問時と同様、スタッフから「体調を考慮して中止した方が良い」との意見が出る中で、李登輝元総統は「台湾にいる日本人に伝えなければならないことがある」と言って譲りませんでした。自分なりに解釈すれば、李登輝元総統がそこまでして日本人に訴えたかったこととは、台湾という存在の重要性を日本人にもっと理解して欲しいということであったと思います。李登輝元総統はかねてより、「日台は運命共同体である」と発言されてきましたが、台湾を守れなければ日本も生存の危機に直面することになる、日本と台湾はそうした関係にあるということを日本人に訴えたかったのだと思います。

 講演の終わりに李登輝元総統が行った「皆さん、日本と台湾のために奮闘しましょう」という最後の呼び掛けには、その場にいた多くの日本人が心を打たれたことと思います。同時に、この訴えを傍で耳にし、自分は改めて李登輝元総統は「千両役者」であると感じました。李登輝元総統は、自身が日台関係において大きな影響力を持つ「李登輝カード」であることを客観的に捉えていたように感じます。だからこそ、自身が日本人に訴えかければ、日本人は動いてくれると考えていたのだと思います。台湾では「李登輝元総統は日本の肩ばかり持つ」と批判的に見る向きもありますが、李登輝元総統からすれば、自身が目指してきた「台湾は台湾として存在し続ける」ことを実現するためには、日本の協力が不可欠であり、そのためには日本人に働きかけなければならないと考えていたのだと思います。やはり、李登輝元総統らしく、感情論に流されることなく、冷静かつ客観的な判断の上で行動されていたのです。

◆李登輝元総統の意志をどのように継承していくか

─ 財団法人李登輝基金会は、先般新体制(注:基金会董事長に李安?氏(李登輝元総統次女)、同執行長に鄭睦群  ・淡江大学助理教授が就任)の発足を発表しましたが、この新たな体制の下で、今後基金会としてどのように李  登輝元総統の意志を継承していく考えですか。また具体的にどのような活動が予定されていますか。

早川氏これまで李登輝基金会の主な業務は、李登輝元総統の身の回りのお世話であり、基金会は正に李登輝元総統がご健在であることを前提とした組織でした。そのため、李登輝元総統は世を去られましたが、引き続き日台関係の強化を主要な柱として、学術や文化、芸術、スポーツなどの交流活動を進めていきたいと考えています。

もうひとつの主な活動として、「李登輝総統記念図書館(仮称)」のプロジェクトが具体的に動き出しています。詳しくは李登輝元総統の一周忌である7月30日の前日に記者発表をする予定ですが、既に政府の支持も得ています。図書館の設立場所は、旧台湾大学社会科学院キャンパス(注:日本統治時代の台北高等商業学校。台湾大学のメインキャンパスがある公館からは少し離れた MRT 善導寺駅の近くに位置する)を利用することが予定されています。このキャンパスは、李登輝元総統が戦後台湾大学の教授時代に教鞭をとっていた場所であり、李登輝元総統のゆかりの地として、図書館設立の最適な場所だと考えています。また、名称は図書館ですが、李登輝元総統の蔵書のみならず、李登輝元総統の功績を展示するコーナーも設ける予定であり、実態上は「李登輝記念館」といった形になるかと思います。李登輝元総統のお墓は、軍が管理する墓園にあり、事前申請しなければ訪問できないことから、この図書館が多くの日本人にとって李登輝元総統を偲ぶ場所になってくれたらと願っています。台北の中心部に位置し、MRT の駅からも近いことから、図書館完成後には是非多くの日本人に訪問して欲しいと思います。また、図書館の設立が予定される旧台湾大学社会科学院キャンパスの向かいには、旧台北市長官邸があります。ここは、李登輝元総統が台北市長時代に市長官邸として実際に住んでいた場所です。現在は市長官邸の役目を終え、喫茶店兼イベントスペースとして一般開放されているので、図書館訪問時に併せて訪問されても面白いかと思います。

図書館の設立以外では、今年はコロナの影響もあり、なかなか自由に活動が行えないのが実態ですが、今年の下半期には李登輝元総統がこよなく愛したゴルフに因んで、李登輝基金会主催で「李登輝メモリアル日台交流杯(仮称)」を開催することも構想中です。また、来年以降になりますが、李登輝基金会と台北日本人学校との共催で弁論大会を行うことも計画しています。

さらに、来年 7 月頃になると思いますが、李登輝基金会主催で国際シンポジウムを開催する予定です。来年のテーマは「日台断交 50 年」です。1972 年の国交断絶は不幸な出来事でありましたが、断交後の 50 年を通じて日台がより良好な関係を築いてきたのも事実です。その中で李登輝元総統が果たした役割は大変大きなものがあったと思います。こうした観点から、日台双方の関係者が参加する国際シンポジウムの開催は非常に有意義だと考えています。また、来年は豪州にとっても台湾との断交 50 年に当たるため、場合によっては豪州などの関係国から参加者を募ることも一案だと考えています。

最後に、ソーシャルネットワーキング(SNS)上には李登輝元総統の生前からファンサイトのようなものがあり、数千人が参加していました。せっかくなので、今後もこれらのSNSを通じて、李登輝元総統の考えを伝えていきたいと考えています。実際、6 月 4 日に日本が支援した最初のワクチンが台湾に到着した際には、李登輝元総統の Facebook アカウントを通じて、中国語と日本語で日本への感謝の気持ちを表明し、大きな反響がありました。李登輝元総統の考えを伝えていくとの観点から、今後ともこうした発信を積極的に行っていきたいと考えています。

(編集・写真:寺山学)

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