【機関誌『日台共栄』2月号「巻頭言」:2021年2月1日発行】 私が李登輝総統に仕えた8年あまり、片時も電話を手放すことはなかった。早朝や夜遅くに電話が鳴る。相手が「非通知」だった場合、それは十中八九、総統のご自宅からだ。自宅の秘書から総統に切り替わると、矢継ぎ早に「来週の講演だけど、どのテーマで話すのがいいかな?」とか「今日もらった報告だけど、もっと詳しい資料がないか」と指示が出る。そんな電話を受けるのが日常だったし、「詳しく相談したいから今から来てくれ」と呼び出されることも珍しくなかった。
不思議なことがあった。総統が亡くなった7月30日の夜のことである。
私はちょうど淡水の事務所を出たところだった。ビルの1階に降り、歩き始めてから背広の上着を置いてきたことに気付いた。普段であれば、自宅には他の背広もあるためほとんど気にしない。事務所は30階にあるため、いったん戻るだけで時間を食うということもある。
いつもならそのままにするところを、あの日はなぜか事務所に取りに戻った。そして事務所に戻った私は、これまたなぜか「総統の執務室の写真でも撮っておこうか」と、電気をつけて何枚か執務室の写真を撮ったのである。そして再び階下に降り、歩いている途中に自宅担当の秘書から受けた電話が「その知らせ」だった。
あの日は、真夏にしては珍しいような強い風が吹いていた。私は「千の風になって」を思い出した。総統ご夫妻がこよなく愛する曲だ。キリスト教徒だった総統は「輪廻転生を私は信じない。私たちは死んだら『千の風』になるんだ」とよく言っていた。
いま振り返って思う。あのとき、総統は千の風になって淡水の事務所へ戻ってきたんだろう、と。総統を退任して以来20年、生まれ故郷の三芝にも近い淡水に置いたこの事務所が活動拠点となっていた。千の風になった総統はその執務室を最後にちょっと見てみようか、と思ったにちがいない。けれども、電気が消えていてよく見えないから私を呼び戻して明るくさせたのだろう、と。
総統に仕えた長い年月のあいだ、私は何度も呼び出された。週末だったことも夜だったことも早朝だったこともある。でも私は、呼び出されるのが大好きだった。総統のために仕事をすることがうれしかったのだ。事務所に戻り、執務室の明かりをつけた「仕事」は、総統の私への最後の「呼び出し」だったのだろう。
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