のりこ)さんが「『台湾歌壇』から日本へ」を寄稿されていることを紹介した。
そのとき併せて、この号では東條由布子さん(NPO法人環境保全機構理事長)も「台
湾への感謝と慰霊の旅」を寄稿されていることを紹介したが、東條さんの訪台には月刊
「WiLL」編集長の花田紀凱(はなだ・かずよし)氏も同行し、「台湾歌壇」代表の蔡焜燦
氏や三宅教子さんと会っている。
その花田氏は、ビジネス誌の月刊「リベラルタイム」という雑誌に「「花田紀凱の血風
録─あの人、あの事件」を長期連載しており、8月号と9月号で蔡焜燦氏を取り上げてい
る。
うまい紹介だ。蔡氏の教養人としての一面をこれほど的確に紹介したものを知らない。
蔡氏の親友で、亡くなった川柳作家の李珵璋氏との掛け合いや「台湾歌壇」についても紹
介している。
誰かに似ている文体だと思って読み進めていて、司馬遼太郎に似ていることに気がつい
た。いささか長いのだが、ぜひ読んでいただきたく下記にご紹介したい。
なお、転載に当っては漢数字を算用数字にしたことをお断りしたい。
◆月刊「リベラルタイム」9月号(8月3日発売 500円)
http://www.fujisan.co.jp/product/1276354/b/826796/
日本を思い続ける台湾人 続・蔡焜燦(「台湾歌壇」代表)
【リベラルタイム:2012年9月号「花田紀凱の血風録 あの人、あの事件」第135回】
先月号(本誌8月号)の最後に蔡焜燦さんが選んでくれた食事会のメニューを紹介した
が、その中に「澎湖絲瓜(ポンフースーガァ)」、つまり「へちまのスープ」があった。
司馬遼太郎さんが『台湾紀行』を書いた時、蔡さんが案内役をつとめ、日本人より日本
人らしい蔡さんを司馬さんが「老台北」と名付けて、本の中で度々、触れていることも書
いた。
その取材の折、「何かおいしいものが食べたい」という司馬さんに、蔡さんが用意した
のがやはりへちま料理であった。
司馬さんも、お供の新聞記者も、初め、それが何だかわからなかった。「実はへちまで
す」と蔡さんがタネ明かしをすると、同席した人々は口々に「化粧水」とか「垢こすり」
と結びつけていた。
「いえいえ、ヘチマはクスリにもなります。熱冷ましです」と蔡さん。
と、司馬さんは箸を止めて立ち上がり、俳句を詠み始めた。
「痰一斗──」
上の句が出たところで藥さんが唱和した。
「へちまの水も間に合わず」
肺を病んだ俳人・正岡子規が、亡くなる前に詠んだ有名な句である。すぐに下の句が口
をつくところがさすが蔡さんである。
続けて司馬さん。
「ヘチマ咲いて──」
「痰のつまりし仏かな」
そして3句目。
「おとといの──」
「へちまの水も取らざりき」
日本人でもいま時すぐに下の句が口をついて出る人は少ないだろう。
◆長歌を諳(そら)んじる
蔡さんが、いかに日本を愛し続けているか。
ぼくは台湾川柳会の会長をしていた李珵璋さん(2005年8月没)の対談「台湾の老怪童の
放談」の速記録を持っている。
戦前の日本、台湾のことを語って、談論風発、実に面白いし、貴重な記録で、いつか整
理したうえで活字にしたいと思っている。
その一部を紹介するとこんな具合。
李 私、5年の時にもう万葉集やらされた。
蔡 僕もやったよ。覚えている。
李 私の先生の好きな万葉は「失恋歌」だ。こんな歌だ。
「つぎねふ 山背道(やましろじ)を 人夫(ひとづま)の馬より行くに 己夫(お
のづま)し 徒歩(かち)より行けば見るごとに 音のみし泣かゆ そこ思ふに 心
し痛し たらちねの 母が形見と 我が持てる 真澄鏡(ますみのかかみ)に 蜻蛉
領巾(あきづひれ) 負ひ並め持ちて 馬買へ我が背」(万葉13・3314)
蔡 これ長歌だね。こわい!
当時、李さんは小学校5年生。その時、習った長歌をここまで正確に再現できるのだから
恐れ入る。戦後の教育で喪(うし)われたものが、いかに大きいかを改めて感じる。
李 これは課外(授業)ですよ。義務じゃないんだ。あの時に私は所謂(いわゆる)「枕
詞」なるものを知った。
蔡 たらちねの母か……。
李 うん、たらちね。これは母にかかる枕詞。「つぎねふ」は山背道にかかる。あの頃、
枕詞に興味を持ってさ、枕詞ばっかし調べてた。
蔡 だから枕さがしまでやるんだなあ(笑)
李 人聞きの悪いこというな(笑)
「枕さがし」といっても、いまの若い人にはわからないだろう(辞書を引く!)。実
際、対談に同席した女性も、何のことやらわからなかったらしい。
もう少し対談を紹介しよう。
蔡 明治天皇お誕生日は何月何日だ?
李 11月3日。
蔡 明治天皇のお名前は?
李 何だったかなあ。
蔡 睦仁(むつひと)。
李 そうそう、睦みあうの睦だ。
蔡 もう一つ、明治天皇が台湾を歌った歌がある。それを朗詠(ろうえい)しなさい。
李 朗詠はできないけどな。「新高(にいたか)の山のふもとの民草も茂りまさると聞く
ぞうれしき」。台湾はね、富士を越える山を6つ持っている。
蔡 新高、次高(つぎたか)……。
李 南(なん)、大山(おおやま)、大覇仙山(だいはせんやま)。これ皆、富士より高
い。
蔡さんが日本人以上の日本人だということが、よくおわかりいただけよう。
◆200億円の義揖金
先月号でもちょっと触れたが、台湾に日本の短歌を詠む会「台湾歌壇」という“結
社”がある。第1集が発行されたのが1968年1月。当時は「台湾」という言葉を使うと当局
に睨まれたので、「台北歌壇」としたという。
徐々に日本語世代が減っていくなかで、少しずつだが会員が増え、現在100人を超えたと
いうから頼もしい。
歌友達の歌を集め、故・呉建堂(ゴケンドウ)氏が編んだ「台湾万葉集」は日本語にも
訳されて、96年に菊池寛賞を受賞している。
余談だが、今回の慰霊の旅、最後の高雄の夕食会で郭秋絹(カクシュウケン)という素
敵な老婦人と同席した。
郭さんは活け花、池坊高雄支部の栄誉支部長をつとめている方で、彼女の話によると、
台湾に池坊の門下生が1000人以上いるという。日本の文化が脈々と受け継がれていると知
って嬉しかった。
話を台湾歌壇に戻す。
蔡さんは現在、「台湾歌壇」代表でもある。
昨年、東日本大震災が起こった時、票さんは居ても立ってもいられない思いだったとい
う。
「しかし、あれだけの大災害を受けながら、日本人が、我慢強く不便な避難所生活に耐
え、乏しい水や食料を分かち合っているということを知って、私は感動しました。日本精
神は失われていなかったと」
世界一多かった200億円という義捐金を集めるのには、蔡さんの力も大きかった。
にもかかわらず、日本政府は正式には謝意を表さず、武道館で開かれた一周忌の慰霊祭
では、指名献花から外すという非礼をしたのである。
後に園遊会で天皇陛下が台湾の馮寄台(ヒョウキタイ)・駐日前代表に、謝辞を述べた
ことで幾分は救われた思いがしたが、このこと一つとっても民主党政権の未熟ぶりは目に
余る。
「いや、日本人は恥ずかしがりだから。感謝の気持ちがあることは以心、伝心わかってい
ますよ」
台湾歌壇の会員達からは、89首も祈りの歌が寄せられた。
蔡さんは11年7月に発刊された『台湾歌壇』第15集で、それらの短歌をすべて掲載するこ
とにした。
<大震災で亡くなられた方々の御霊の安らかでありますようお祈りし、また被災なさった
方々が一日も早く安心してお暮らしになられますようお祈りし、日本の一日も早い復興を
お祈りして台湾歌壇有志一同の短歌八十九首を巻頭に掲載いたしました。私達は日本の国
体と精神の復興を堅く信じております>
蔡さんが書いた巻頭の言葉である。
89首の歌を読んでいると、有り難くて涙を禁じ得なかった(その一部は『WiL』8月号に
紹介している)。
蔡さんの作品。
困難の 地震と津波に襲はるる 祖国守れと 若人励ます
◆台湾の人々の想い
台湾に行く度に感じるのは、台湾の人々の日本に対する熱い想いである。それは日本語
世代に限らない。
今回も台北駅でロッカーの切符の買い方がわからず困っていたら、わざわざ戻って来て
教えてくれた若い女性。一生けんめい、たどたどしい日本語で道案内をしてくれた青年等
枚挙にいとまがない。
蔡さんのいつに変わらぬ日本への想いを聞きながら、日本人は台湾の人々のこの熱い想
いを、決して片思いに終わらせてはいけない。 (文中敬語敬称略)
さい・こんさん/1927年、台湾生まれ。台中州彰化商業学校卒業。45年、岐阜陸軍整備学
校奈良教育隊入校。終戦後、台湾で体育教師となり、後に実業家に転身し、現職。著書
に、『台湾人と日本精神』(小学館)、『これが殖民地の学校だろうか─母校「清水公学
校」』(榕樹文化)がある。
はなだ・かずよし/1942年東京都生まれ。東京外語大卒。66年、文藝春秋入社。『文藝
秋』『週刊文春』デスクを経て88年、『週刊文春』編集長。同誌を実売51万部から76万部
にし総合週刊誌1位の座につけた。現在、『WiLL』編集長。『編集者!』(ワック)等著書多
数。