新型コロナ感染不安の心理学  渡辺 利夫(拓殖大学学事顧問)

【産経新聞「正論」:2020年5月6日】

 新型コロナウイルスの拡散に人々は怯(おび)えを隠せない。医療崩壊のニュースが報じられるたびに不安と恐怖に身の縮む思いに駆られている。ウイルスの正体がいまだつかめず、治療薬の開発、免疫力効果の発揚にはなお時間を要するらしい。

 この状況下でおそらく最も深刻なことは、人々の心の中に不安障害や強迫観念が密(ひそ)やかに進んでいくことであろう。強迫観念が少しずつ積もり、やがてその累増が社会的なパニックを引き起こす危険な可能性がある。

◆不安の「虜囚」となるなかれ

 生きとし生けるものにはすべて生存本能がある。自己防衛本能がある。人間の本性である。この本性があってこそ、人間は古来このか細い人生を生き永らえてこられたのにちがいない。しかし、人間の生存本能は、時として自らの生存を脅かすものを特定の他者の中に見出し、これを非難し糾弾する攻撃的な心理へと人々を誘う怪しさと危うさがある。罹患(りかん)者を排除しようとする差別的な心理はしばしば御(ぎょ)しがたい。

 理性とは真逆のこの心性が人間の中に内在していることを、私どもはありありと認めなければなるまい。その認識に至って初めて私どもは理性と反理性の在(あ)り処(か)に覚醒することができるのであろう。

 医療崩壊のことを聞かない日はない。日本の医療水準・制度は世界においても際立つ。この医療を崩壊させるものが、わが内なる反理性であることに私どもは気づく必要がある。

 病むことを不安に思い、死を恐怖することはすべての人間に共通する心情である。不安、恐怖は誰にもあり得る当然の心理である。不安、恐怖を「異物化」し、これを本来あるべきものではないとして排除しようと図(はか)らうならば、私どもはますます深い不安、恐怖の「虜囚(りょしゅう)」とならざるを得ない。強迫神経症としてかねて精神医学において語られつづけてきた症状がこれである。この症状を治癒する療法や治療薬はない。人間のこの心理の傾きを私ども自身が反転させるより他に方法はない。

◆煩悩の犬、追えども去らず

 神経症は実は異常ではない。人間の強い生存本能のまぎれもない反面である。人間の精神の内界には「生の欲望」と「死の恐怖」が共存している。生の欲望が強ければ強いほど死への恐怖もまた強いという心理相対論が真実なのであろう。

 森田療法の創案者として名高い森田正馬(まさたけ)は次のように記している。「生きとし生けるものの絶えざる活動や、死に臨んでもがき転々反側(てんてんはんそく)する有様は、生物界における客観的な具象としてわれわれの観察するところのものである。この客観的現象について、私はこれを生の欲望と名付け死の恐怖と目する」

 森田はまた「煩悩の犬、追えども去らず」という言い習わしを用い、その症状を「われとわが心の内の狂犬に絶えず脅かされている」ようなものだと表現する。強迫観念の生じる条件は、ある特定の想念、例えばウイルスの拡散恐怖についてこれを感じまい、考えまいとする人間の反抗心のゆえであり、この反抗心を没却(ぼっきゃく)すれば強迫観念は成立しないという。ウイルスの脅威は脅威としてこれをただ「あるがままに」みつめよう。

 新型コロナウイルスの感染拡大は、東日本大震災のような目にみえる人的・物的被害とは異なる。敵はなお正体不明の存在である。先の見えない長期戦になることも覚悟しなければならない。

◆「情報公害」の拡散を避けよ

 森田正馬の第一高弟が高良(こうら)武久である。氏は「不安は存在するのが常態である。これが事実である。それゆえ、不安を排斥して異物扱いしてはならない」という。人間は無数の敵に囲まれて生存している。敵のすべてに対処することなど不可能事である。不安や恐怖を人間が排除することはもとよりかなわない。不安は「常態」そのものだと考えてことに処すべきだ、高良はそういう。

 新聞もテレビも新型コロナウイルスの恐ろしさ、医療崩壊の深刻さを訴えて倦(う)むことがない。それぞれは真剣な報道であろうが「合成の誤謬(ごびゅう)」ということもある。真剣な報道の多くが積み重なって、結局は人々を不安と恐怖に陥れる巨大な「情報公害」を拡散させている可能性がある。ネガティブな情報のみを切り取って、それがあたかも全体像であるかのように語る「専門家」が少なくないようにもみえる。

 人類の歴史は感染症との闘争史であったといわれる。確かにそうであろう。しかし、ならば、これまで収束することのないパンデミックはなかったということになろう。ファクト(事実)とエビデンス(根拠)を粛々と伝えるという、地味で着実な報道に徹してほしい。そして何より、この過酷な戦場の最前線で身命を賭(と)して戦う多くの医療従事者をはじめとする者たちに、心からの深い敬意と、その戦いが成果をあげるよう祈る、ジャーナリズムは国民心理をそういう方向に導いてほしい。(わたなべ としお)

※この記事はメルマガ「日台共栄」のバックナンバーです。


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