◆繁体字:後藤新平的面部遺像在臺灣發現! https://www.nippon.com/hk/japan-topics/g00672/
内務大臣兼復興院総裁として、関東大震災で壊滅した帝都の復興に大きな役割を果たした後藤新平の没後90年にあたる2019年4月13日を前に、台北市のとある寺で後藤のデスマスクが一部メディア向けに公開された。
読者の中には、「なぜ台湾で?」と思われる人もいるかもしれない。
台湾は、日清戦争の勝利によって日本が初めて手にした海外領土だった。後藤は第4代台湾総督児玉源太郎を補佐する民政長官として、 1898(明治31)年から1906( 明治39)年までの8年間にわたって、植民地経営に携わった。当時、台湾の人々の間に広まっていたアヘン吸引の禁止や、鉄道・港湾など都市インフラの整備、製糖産業の育成など、矢継ぎ早に近代化政策を実行した後藤は、今も台湾で多くの人にその名を知られる日本人の一人なのだ。
実は、私自身が後藤のデスマスクと対面するのはこれが3回目だ。2006年11月、私は神社遺跡の調査研究で訪れていた台北で、たまたま後藤新平のデスマスクに関する情報を入手し、台北市を走る地下鉄MRTの圓山駅前にある臨済護国禅寺を訪れた。臨済護国禅寺は児玉源太郎が仏教布教のために建てさせた寺で、本堂の建立にあたっては後藤も多額の寄付をするなど縁が深い。
彌陀(みだ)殿の2階に安置されているおびただしい位牌に交じって、黒塗りの厨子が大切に保管されていた。その扉を開くと、中に小さめの顔に自慢の口ひげと顎ひげを伸ばしたデスマスクがあった。左右の扉には次のように書かれていた。
昭和四年四月十三日於于京都府立病院逝去 天眞院殿祥山棲霞大居士 霊位 伯爵 後藤新平閣下像
献納 辜顕榮
◆台北に献納したのは辜顕栄
献納者として名前が記されていた辜顕栄(こけんえい)は台湾の実業家で政治家。日本統治下の台湾で度重なる抗日運動の鎮圧に全面的に協力し、後藤から絶対的な信任を得て、台湾総督府の専売事業だった樟脳(しょうのう)の製造・販売や塩田開発、アヘン、タバコ販売など譲り受け、巨富を築いた。1923(大正12)年には勲三等に叙勲され、34(昭和9)年7月に貴族院議員に勅選された最初で、唯一の台湾人である。後藤とは、個人的にも深い親交を結んでいたことが知られている。
後藤が倒れたのは、1929年4月4日早朝。講演の依頼を受け、東京発の夜行列車で岡山に向かう途中、滋賀県米原市付近でのことだった。後藤は京都駅で列車から降ろされ、京都府立医科大学付属病院に救急搬送された。
後藤急病の報は台湾にいた辜にももたらされた。辜は、9日の近海郵船の大和丸で基隆を出発し、12日に京都に到着し病院に駆け付けたが、その時点で、後藤は既に意識不明となっていた。13日に危篤に陥り、そのまま息を引き取った。
4月13日付の読売新聞は次のように伝えている。
遥々(はるばる)台湾から見舞いに入洛 その贈物に絡む光栄も悲し 枕元に泣く辜顕栄氏 後藤伯の病勢愈々(いよいよ)重く今夜は只(ただ)時間の問題と医員から宣告された12日の午 後3時頃、力なげな歩みを運んで伯の病室を訪れた白髪の一老人があった、その人は元中華民国 財政顧問の軍職に在り、我台湾統治に就いても少なからず尽瘁(じんすい)した結果勲三等を賜 はつたと云(い)う台湾人辜顕栄氏であるが後藤伯と氏とは民政長官時代から肝胆相照らす親交 を続け辜氏が隠世後も伯を慕ふの余り四季を通じて心尽しの贈り物と音信を絶たぬ程であった が、突然の発病を聞き遥々上つて来たのである、今は片言さへ発し得ない伯を見て老眼には涙に 濡(ぬ)れ ―中略― 伯の危篤の悲報を聞いたので急遽(きょ)入洛したのであるが時既にお そくこの光栄を語り合う術(すべ)もない有様に余所(よそ)目も哀れな程嘆いてゐる。
さらに、後藤の死去に関連した記事としては、「家族の希望によりデスマスクを取ることになった」ことを複数の新聞が取り上げている。京都市内で理化学機器の製造をしていた上野製作所の技師が待機していて、臨終が告げられると間もなく病室に入り、マスクを取った。石こうの型から3つのデスマスクが作られたようであり、4月15日付の神戸新聞夕刊にはその写真が掲載されている。このうちの1つが、いまわの際に台湾から駆け付けた辜に託され、辜が臨済寺に献納したということなのだろう。
当初、臨済護国禅寺で対面したデスマスクが本物かどうか確信を持てずにいたのだが、2018年、決定的な新聞記事を発見することができた。
後藤死没翌年にあたる1930年4月12日付『台湾日日新報』に「故後藤伯 一周忌」と題して、後藤の妻・和子が設立した台湾婦人慈善会が主催して臨済護国禅寺で法要が執り行われることになったと書かれていたのだ。さらに、「同寺には昨年伯が京都府立大学病院で薨去(こうきょ)の際取ったデスマスク(死面)が辜顕栄氏の寄贈によって安置されてある」と記されていた。
後藤家は臨済宗妙心寺派の檀家で、辜も同じ信徒であったという。台湾の近代化に尽くした後藤に敬意を表し、台湾の地にぜひとも奉安したかったのだろう。
残念ながら、現時点で、残る2つのデスマスクのゆくえは分かっていない。後藤家の本家の菩提寺である岩手県奥州市の増長寺(臨済宗妙心寺派)や東京青山斎場で葬儀を取り仕切った青松寺など思い当たる場所を調べてみたが、いまだ発見には至っていない。
後藤は台湾民政長官を務めた後、南満州鉄道の初代総裁に就任、鉄道インフラの整備を核とした都市計画を進めた。これは、全く推測の域を出ないことだが、もしかしたら、3つのデスマスクは後藤とゆかりの深い、台湾、満州、日本に一つずつ納められているのではないだろうか。日本人の習慣として決して一般的ではないデスマスクが死後、手際よく製作されたのには、家族だけではなく、後藤が関係した人々の思いがあったのではないかと想像する。
ちなみに、台北の臨済護国禅寺のデスマスクは一般公開されていない。日本統治時代については、台湾の人々の間でも評価が分かれており、これまでは、反日的な運動の攻撃対象になることへの懸念があったのであろう。日台関係が深化する中、いつの日かこの貴重な文化財が完全公開されることを期待している。
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金子 展也(かねこ・のぶや)1950年(昭和25年)、北海道生まれ。小樽商科大学商学部卒業。卒業後、日立ハイテクノロジーズで勤務、2001年より06年まで、台湾に駐在する。専門は日本統治時代の台湾に造営された神社の調査・研究。現在、一般財団法人台湾協会評議員。2012年から16年まで神奈川大学非文字資料研究センターで研究協力者として海外に造営された神社の調査研究を行う。著書に『台湾旧神社故地への旅案内―台湾を護った神々』(神社新報社、2015年)、『台湾に渡った日本の神々』(潮書房光人新社、2018年)