https://bunshun.jp/articles/-/13384*本誌掲載に当たってタイトルを変更しています。
台湾の蔡英文総統を10年間にわたって記録してきた専属カメラマンの林育良(リン・ユィリァン、41)氏――。60万枚以上のカットから浮かび上がる、台湾初の女性元首の素顔について、東京で開く初の個展に合わせて来日した林氏に聞いた。
◆自ら“バえる”構図を作るようなことはしない
「撮影対象としては正直なところ、難しい素材だよね。それだけに、じっくり時間をかけて彼女の内面と向き合う日々にやりがいを感じている」
林育良が蔡英文にレンズを向け始めてからちょうど10年になる。中華民国総統府の「主席撮影官(首席カメラマン)」として蔡英文の日々を追い続ける彼は、「今も彼女は基本的に撮られることが苦手。とにかくシャイで、気を利かせて自ら“バえる”構図を作るようなことはしないし、そもそも自分を良く見せようという欲がカケラもないんだよ」と振り返る。
そんな蔡英文も、子どもと猫と美味しいものを前にしたときだけは、屈託のない笑みを浮かべるという。
キリスト教会や台湾高速鉄道の公式写真家だった林が蔡英文を記録するようになったきっかけは、バラク・オバマ前米大統領の専属カメラマン、ピート・ソウザの作品に感銘を受けたことだった。型にはまらない大統領一家の素顔を浮き彫りにし続けたソウザのように「歴史を創る人物の素顔にカメラで迫りたい」と思うようになった林は当時、最大野党・民主進歩党(民進党)の主席(党首)だった蔡に自らを売り込み、専属カメラマンになった。
◆「シャッター音すら被写体の癇に障る場合もある」
「毎日のように密着したけれど、蔡英文が私の存在に気を留め、向こうから簡単な言葉を掛けてくれるまで3カ月以上はかかった」
今では蔡が大群衆の中から彼を見つけ出し、手を振って合図するほどの仲だが、それでも常に腐心するのは「讀空氣」、いわゆる場の空気を読むことだという。
「張り詰めた場面では、シャッター音すら被写体の癇に障る場合もある。蔡英文はとても自制的で、感情を露わにすることはない女性。それでも時にはフッと笑顔が消えて、眉間をピクッと動かす瞬間があるんだ。誰もが見過ごす微妙な変化から心を瞬時に読み取り、時にはシャッター回数を最小限に抑えつつ、要求された絵をおさえなければならないんだよ」
国家元首である総統の行動には当然ながら、安全確保が何よりも優先される。専属カメラマンであっても、警備優先のため立ち位置や撮影時間が制限されることも多い。
「それでもひとたびファインダーを覗けば、そこにあるのは私と蔡英文だけの濃密な世界。撮影の中身や結果に注文がつけられたことは一度もなく、彼女から全幅の信頼を置かれている有り難さを噛み締めているよ」
◆クシャクシャのお札を差し出され……
最も忘れがたいのは2011年、台湾南部の廟(びょう)を参拝したときの光景という。翌年の総統選出馬を決め(※このときは落選)、蔡英文は各地の廟を訪ねて必勝祈願していた。
「ある廟で大勢の村人たちが、『選挙費用の足しにしておくれ』と言いながら、クシャクシャになった100元(当時のレートで約300円)札を競うように蔡英文へ差し出したんだ。日に焼けたひびだらけの手でね。日本なら、見栄えの悪いシワシワな紙幣をむき出しで渡すなんて顰蹙モノでしょ? ただ、田舎に住む年配の台湾人には、すぐに取り出しやすいよう紙幣をポケットや腰巻きに突っ込んでおく習慣がある。決して悪気はないんだ」
厳しい生活環境下にある地方の村人たちにとって、1枚の100元札がどれだけ貴重なものかを、田舎町で育った林育良も実感している。
「蔡英文もそのことをよくわかっていたから、ある老婆から300元を差し出されたときはびっくりして感極まりながら『ありがとう、本当にありがとう! 私は100元だけいただくね。でも200元はお返しするから、おいしいものでも食べて!』と言って、そっと老婆の手に2枚を返したんだよ」
◆積極的に市民の中へ入っていくように
資産家の令嬢に生まれ、台湾大学や英の名門大に学び、国立大学教授から高級官僚、閣僚を経て政治家となった蔡英文には、常に「学者然としてどこか冷たい」「近寄りがたい」というイメージが付きまとっていた。
パフォーマンス下手で口数が少なく、シャイな性格も誤解を与えやすい一因だが、林は「彼女にもこの廟での一件は大きなインパクトを与えたはず。それからは積極的に市民の中へ入っていき、蔡英文自身が自ら変わっていこうとするのをその表情からファインダー越しに感じるようになった」と述懐する。
それでも林育良の目に映る蔡英文の本質は、驚くほど変わらないという。
「彼女に接した誰もが、もったいぶった態度や演技じみた点が少しもないことに気付くはず。カメラマンとしてはむしろ『こう撮ってほしい』という好みがあるほうがイメージも作れるし、撮りやすい。でも彼女は昔から自分を飾ることに興味がなくありのままだから、今後も“難しい素材”であり続けるだろうね」
そして移動中は、どれだけ多くのSPや秘書に囲まれても資料の入ったカバンを自分で持つという。「自分でできることは自分でするというシンプルな考えの持ち主で、それは総統になっても同じ」と林。
◆「あなたの作品から台湾の一面を知ってくれれば」
『写真─記録─劇場』と題した林育良の個展では、約40点の作品が展示されている。といっても蔡英文の表情を大写ししたストレートフォトを並べるのではなく、訪問、激励、収録、視察、臨席といった彼女の公務の一端を独特のアングルで切り取り、台湾総統の立場や台湾という国の矛盾を浮かび上がらせていく趣向が面白い。
来場者自身が作品を通じて自分が総統になったような錯覚を覚えたり、「投票」で擬似的に台湾の政治に関わったりする仕掛けも施されている。
蔡英文は個展の開催を聞いて大いに喜び、「私は立場上、東京へ駆け付けることができないけれど、多くの人があなたの作品を通して台湾の一面を知ってくれれば嬉しい」と語ったという。林も「総統というとてもセンシティブな主題だけに、台湾で同じ展覧会を開くのは難しい。いろいろなレッテルが貼られ、企画意図が曲解されかねないからね。むしろ台湾に対してフラットな立場でいられる日本人に、タピオカや小籠包だけではない台湾を感じてもらえたら」と期待を込める。
・林育良(リン・ユィリァン) 写真家、台湾達帕撮影芸術協会常務理事。1977年台湾雲林県斗南鎮出身。蔡英文が野党党首時代 に専属となり、2016年の蔡政権発足に合わせて中華民国総統府主席撮影官に。10月には米NYで、 台湾の風景をテーマにした写真展を開催予定 ©田中淳
・INFORMATION 林育良個展『写真─記録─劇場』 8月11日まで、渋谷区・代官山のヒルサイドテラス「ヒルサイドフォーラム」で開催中。入場無料 http://hillsideterrace.com/events/7956/
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田中淳(たなか・じゅん)編集者・記者1973年千葉県出身。編集プロダクション、出版社勤務を経て中国・北京大学に留学。シンクタンクのマーケティングリサーチや経済系通信社の中華圏編集、金融情報会社のマーケット情報編集に従事。近著に『100歳の台湾人革命家・史明自伝 理想はいつだって煌めいて、敗北はどこか懐かしい』(講談社)。