台湾人と靖国神社 [中国語講師 劉 美香]

台湾の人々にとって、いまだに靖国神社は遠い存在かもしれない。日本人として大東
亜戦争を戦った台湾の人々に対して、「日本は中国を侵略した」という蒋介石・蒋経国
時代の教育が災いし、靖国神社はいわゆる「軍国主義」を象徴する施設と映っているか
らだ。

 それが、日本の左翼・人権派勢力と手を組む高金素梅ら「親中反日派」による原住民
の合祀取り下げ活動や靖国訴訟を起こした反靖国活動となって現れた。この経緯につい
ては、林建良氏が『日本よ、こんな中国とつきあえるか?』(並木書房、2006年7月)
で詳しく述べているとおりだ。

 元々、台湾の日本語世代や原住民の多くは靖国を敵視などしていない。むしろ、感謝
の意を表し、来日のたびに参拝している人が少なくない。それは、蔡焜燦氏の『台湾人
と日本精神』(小学館文庫、2001年9月)にも明らかだ。近年、台湾少年工出身の人々
が参拝し、昨年は李登輝元総統が参拝するなどして、また教科書改革もあり、台湾の若
い世代の靖国観も少しずつではあるが変わりつつある。

 台湾南部の高雄県六亀郷に生まれ、縁あって日本人と結婚した劉美香さんも、国民党
教育の犠牲者だった。両親が昭和2年生まれで、家での会話も日本語と台湾語だったに
もかかわらず、国民党の中国人化教育は劉さんを洗脳し、すっかり「日本嫌悪感」を植
えつけられ、反靖国となる。

 それが、夫の仕事の関係で中国で生活することによって台湾人に生まれたことを感謝
するようになり、帰国後は本会に入会して靖国神社へ参拝しているうちに国民党の呪縛
から解き放たれる。

 劉さんは、そんな一台湾人としての靖国神社との関わりの軌跡を、8月4日発売の『激
論ムック−8・15と靖国の真実』(西村幸祐編集)に「台湾人と靖国神社」と題して寄
稿している。自分の体験を丁寧にたどった、たいへん素直な感懐だ。いささか長いが、
ここに一挙に掲載してご紹介したい。

 文中、劉さんの父が第一期海軍志願兵に応募したことが出てきて「志願兵の競争率は
六百倍以上だった」と記している。

 陸軍特別志願兵の募集は昭和17年から始まり、海軍は19年から始めている。当時の台
湾総督府が発表した「従軍志願者数と採用者数」によれば、昭和17年は採用者:1,020
人に対して応募者数:425,961人(418倍)、昭和18年は採用者:1,008人に対して応募
者数:601,147人(596倍)、昭和19年は採用者:2,497人に対して応募者数:759,276人
(304倍)となっている。

 19年の倍率が低いのは20年から徴兵制が決まっていたからだが、この3年間の志願兵
応募者は170万人以上に上っている。中には血書嘆願した者も少なくなかったという。
台湾人の心意気がこの数字に如実に現れている。これが、日本人として大東亜戦争に臨
んだ台湾の人々の歴史なのだ。日本人も台湾人も、この歴史を忘れてはなるまい。

 劉さんが紹介しているように、靖国神社には台湾出身戦歿者が27,864柱もお祀りされ
ている。本会が実施している「李登輝学校研修団」の卒業生でつくる李登輝学校日本校
友会(片木裕一理事長)は平成17年から毎年、台湾出身戦歿者慰霊祭を斎行している。
今年も12月に行う予定だ。

 なお、劉さんの魂の軌跡「台湾人と靖国神社」が掲載された『激論ムック−8・15と
靖国の真実』には、本会常務理事の林建良氏をはじめ、高森明勅、佐藤健志、大高美貴、
石平、ロマノ・ヴルピッタといった方々も寄稿しており、靖国神社の今を理解するのに
格好のテキストとなっている。劉さんの一文とともに、併せて読まれることをお勧めし
たい。

                    (メルマガ「日台共栄」編集長 柚原正敬)

■『激論ムック−8・15と靖国の真実』
 オークラ出版、2008年8月4日刊、定価:1,200円(税込)
 http://www.oakla.com/gekironweb/gekironcontents02.html


台湾人と靖国神社−一台湾人の、大東亜戦争と靖国神社の記憶

                             中国語講師 劉 美香

消えた靖国の記憶

 私は縁あって、台北で日本人と知り合い結婚した。一九八一年十月、東京での結婚式
と披露宴に出席するために両親も来日した。夫はわが両親にどこか案内したいと言った
とき、「靖国神社」という答えが返ってきて驚いたそうだ。

 当時二十五歳の夫には中国広東で従軍中に負傷して、除隊した母方の叔父が一人いた。
昭和二年生まれの義父は、いざとなれば天皇のために死ぬ覚悟を決めていたが、体重が
わずか三〇余キロしかなかったために徴兵を免れたそうだ。その義父一家も今では朝日
新聞を購読するような、GHQに骨を抜かれた平均的な戦後日本人になってしまってい
る。こうした環境の影響からか、日本人である夫は「靖国神社」へ行ったことがなかっ
たし、台湾人の私の父母が靖国へ行きたがるのも理解できなかったようだ。

 問題は同行したはずの私に、このときの記憶がまったく残っていないことだ。どうし
てだろう。中華民国の国民党の戒厳令下で、完全に洗脳された私は日本が中国を侵略し
たと思い込み、靖国神社の存在も知らなかった。私達は両親や親戚から「日本時代が国
民党よりずっとまし」と言われて育ったにもかかわらず、反日だった。家では「KIMOCHI」
「AISATU」「OJISANG=欧吉桑」「OBASANG=欧巴桑」「ARIGATOU」「SAYONARA」など台湾式
日本語を使っているのにだ。私の記憶から参拝の風景を消し去ったのは、この国民党教
育で植えつけられた「日本嫌悪感」だったと認めざるを得ない。

私の家族と戦争

 私は八三年に日本に帰化し、夫の仕事関係で、八四年から九九年の間、計三回、合計
七年半北京と上海で暮らした。中国での生活実体験により、日本の台湾統治が良かった
とつくづく思うようになった。そして、自分が中国人ではなく、台湾人で日本人でもあ
る事にひたすら感謝する気持ちが日毎に強くなってきている。それから両親に日本時代
の話を聞いたり、関連の本を読んだり、日本李登輝友の会に入会し、友の会の集いでは
靖国神社へ数回も昇殿参拝している。

 父は昭和十九年数え年十八歳の時に、勇んで第一期海軍志願兵に応募した。第一次、
第二次と試験を突破し、当時の高雄県での最終検査で、幼少期の怪我がもとで右人差し
指が変形しているのを理由に落とされた。父は大層がっかりしたそうだ。その無念さは
戦後まで続いた。なんとそのときの志願兵の競争率は六百倍以上だったという。父は終
戦数ヶ月前に親の代わりに百日の奉公工(無論無賃金)として、後方勤務部隊の経理部
で用務員として奉公した。警察官で、高砂族の酋長の娘と結婚した叔父は二年間高雄近
辺で従軍した。

 もう一人の叔父は軍属として従軍していた。母の妹の夫は少年工として内地に渡り、
飛行機の部品を作っていたそうだ。母の仲良しの同級生数人が海南島、フィリピン、南
洋の島等で戦死した。叔父の同期では、知っているだけでも九十数名も戦死した。特に
高砂族は先祖伝来の「蕃刀」を持ってジャングルを切り拓き、台湾山地の密林で培われ
た鋭い感性をもって、深い密林の中で日本軍の先頭に立った。母が少数生き残った高砂
族の旧日本軍人から聞いた話によると、グループでそれぞれ密林の高い樹の上に潜んで、
敵軍が下を通った時に、飛び降りて蕃刀や日本刀で敵軍を切り殺す捨て身作戦を行った
勇敢な高砂義勇兵も多数いたという。そのほとんどが戦死したか餓死した。八一年の両
親の靖国参拝の目的が、戦死した同級生達とおじの親友達に会いに行くのが目的であっ
たのを私が知ったのはかなり後になってからだ。

戦後台湾の「反日教育」

 戦後「犬が去って、豚が来た」といわれる国民党の暴政が続く。二・二八事件と白色
テロ、官吏の汚職に横暴な態度。台湾の豊富な食料を中国へ持っていたせいで、一日で
物価が三〜五回も値上がり、そのような圧政を体験した元日本人の台湾人達が日本時代
を懐かしく思っていた事実は蔡焜燦先生の著書『台湾人と日本精神(リップンチェンシ
ン)』でよくわかる。

 〇一年七月一番目の姉一家が東京観光に来た。義兄は陳水扁総統の閣僚で、一家は勿
論「純緑派」だ。「哈日族」の姪二人の要望で武道館にお伴した。ちょうど靖国神社で
みたま祭をやっているので立ち寄る。姉は「李登輝総統のお兄さんが祀られているね」
と言った。姪の一人は名門・台北第一女子高校を卒業したばかりの十七歳。「参拝して
いきましょう」と私が言ったときの彼女の反応はまるで昔日の私を見るようだった。彼
女は私にこう言った。「日本は中国を侵略したのよ、おばさん、参拝しないで」。私は
「私はもう日本人ですから、これらの方々の犠牲の上に今日平和で繁栄した日本になれ
たのよ」と彼女に説明した。その姪も今年でアメリカ留学六年目。アメリカでは多くの
日本人と親しく付き合っている。日本語も上手くなり、日本に対して更に興味津々だ。
〇七年夏休み、台湾で再会した時に彼女は「君が代」を正確に歌って聞かせてくれた。
満州国皇帝の弟に嫁いだ愛新覚羅浩氏の『流転の王妃の昭和史』の中国語版を読んでい
るといって本も見せてくれた。アメリカへ行かなかったら、姪も今回の台湾の立法院、
総統選挙に馬英九に投票した六割の台湾人の一人になっていたかもしれないと思った。
長年の国民党の洗脳教育の弊害の深刻さを再認識させられた。

陸軍パイロットとして活躍したある台湾人

 〇五年には、司馬遼太郎氏の『台湾紀行』の案内役の「老台北」こと蔡焜燦先生とご
一緒に参拝する機会にも恵まれた。翌〇六年、李登輝前総統の靖国神社参拝にも旗をも
って声援に駆け付けた。

 台湾出身の旧日本軍人の呉正男氏と知り合ったのも日本李登輝友の会が縁だ。呉氏か
ら自著『「塞翁が馬」わが青春』等たくさんの資料を戴いた。昭和十九年、内地留学中
の十七歳の時、陸軍特別幹部候補生の試験を受け、水戸航空通信学校に入隊。その後、
茨城の滑空飛行第一線隊に転属した。フィリピン方面に出撃直前に、遺書を書き、爪・
遺髪を東京の下宿先に送った。着任前に「空母雲竜」が全滅したため、出撃は中止とな
った。戦隊は五月、今も北朝鮮にある「宜徳飛行場」に移動した。特攻要員参加の意識
調査で「熱烈望」に○印をつけた事を鮮明に憶えているそうだ。

 終戦を宜徳で迎えたが、玉音放送は雑音で理解できず、誰もが対ソ戦の鼓舞と思った。
その後ソ連に抑留された。中央アジアの収容所で二年間、課せられた重労働、空腹、マ
ラリア発病等の悪夢は思い出したくないと、今もロシアを憎悪する心境であると語って
いる。まさに波瀾万丈の半生である。元日本軍人の台湾人の赤裸々の記録を歴史の証人
として、私は呉氏を始め、少数の生き残った旧日本兵の台湾軍人に尊敬の意を表したい
と思う。

 平野久美子著『トオサンの桜』にたくさんの台湾のトウサン、カアサンが登場する。
呉正男氏もその一人だ。この本によると日本時代の台湾籍の軍人軍属は二〇万七一九三
人、戦没者は三万三〇四人、そのうち二万七八六四人が靖国神社に祀られている。「台
湾老兵協会理事長」の許昭栄氏も登場する。「元日本軍・前国軍」は日本統治時代には
日本兵として戦い、戦後は共産党軍との戦い(四六〜四八年)のため、大陸に送り込ま
れた台湾人兵士をさす。台湾へ生還できた人は数百名に満たない。大部分は国共内戦か、
その後の朝鮮戦争に共産党軍として従軍して亡くなった。生き残っても文革時代に酷い
仕打ちを受けた。許氏は「日本には靖国神社があり、アメリカには国立の戦没者墓地が
ある。国共内戦の戦没者には忠烈祠があります。しかし台湾老兵の魂はどこにも行き場
がないんだよ」。ブラックリストが廃棄される九六年に帰台した昭栄さんらが奔走して、
〇六年にやっと高雄旗津の「戦争と平和公園」内に「台湾無名戦士慰霊碑」の碑が建立
された。去年私は台湾里帰りの際、ここにも参拝した。「旧日本軍、国民党軍、共産党
軍の三つに、命をもてあそばれた悲劇なんだよ」。本を読みながら私は涙した。

 今年五月二十日、台湾・馬英九新総統就任日の夕方、許氏は「台湾無名戦士慰霊碑」
の前で焼身自決された。民進党の陳水扁総統の無情さと無関心さ、更に台湾が国民党政
権に戻ったことに対しての抗議自決だった。

 これこそ李登輝先生が『台湾紀行』で司馬遼太郎氏と対談の時におっしゃった「台湾
人に生まれた悲哀」だ。七月二十日、靖国会館で「許昭栄烈士追偲会」を行うことにな
った。許昭栄氏の御冥福をお祈り申し上げます。