たのは、つい1年ほど前。2014年3月18日のことだ。もっとも衝撃が大きかったのはいうまでもなく
台湾で、台湾史に残る画期的な出来事だったと言って過言ではない。
ひまわり学生運動に参加した林飛帆氏や陳為廷氏など学生代表の発言は、立法院を退去した後も
かなり取り上げられていたが、立法院補欠選挙に出馬表明した陳為廷氏がかつての痴漢行為を正直
に告白したことが災いして立候補を断念し、林飛帆氏も兵役に服するなどで、ひまわり学生運動に
関する報道はめっきり減った。
しかし、ひまわり学生運動は台湾人としての自覚を促し、台湾に愛国心をもたらした。独立への
機運を高めた。なによりも、中国国民党政権への打撃は大きく、統一地方選挙にも大きな影響を与
え、与党惨敗の結果をもたらした。2014年3月18日は、台湾人が自らの声を挙げた日として長く台
湾史に刻まれるだろう。
それだけに、ひまわり学生運動のその後が気になっていたところ、朝日新聞台北支局長の鵜飼啓
(うかい・はじめ)記者が5月27日から「台湾のひまわりをたどって」を連載、その後のひまわり
学生運動についてレポートしている。その第4回を紹介したい。
台湾のひまわりをたどって(4) ルーツは「野いちご」
鵜飼 啓(台北支局長)
【朝日新聞:2015年6月1日】
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11785728.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S11785728
写真:立法院の議場からの退去にあたり、参加者に訴える林飛帆(左)。緑のジャケットがトレー
ドマーク。人民議会の横断幕が掲げられた=2014年4月10日、台北
昨年3月の台湾「ひまわり学生運動」から1年がたったころ、立法院(国会)占拠で一躍有名に
なった学生リーダー、林飛帆(27)に台北駅近くの喫茶店で会った。
台湾大学大学院生の林は休学し、故郷の南部・台南で兵役の代わりとなる社会福祉労働に就いて
いる。休みのこの日は集会に参加するため台北に来ていたが、運動の中心からは身を引いていた。
23日間に及んだ立法院占拠は、運動の進め方をめぐって批判もあった。特に問題になったのが意
思決定方法だ。4月10日の退去を決めた際は、納得できない参加者が林らに詰め寄る場面もあっ
た。
学生20人と市民団体から10人の代表会議を開き、運動の進め方を決めていた。政権側への情報漏
れを防ごうと情報共有を制限し、ほとんどの参加者が意思決定に加わることができなかった。
「黒箱(ブラックボックス)」。民意をくみ取ろうとしない政権につきつけた批判が、林らにも
向いた。民主主義を取り戻そうと立ち上がったのに、運動は民主主義的な手法から離れていった。
「どんな運動も理想的な決定過程を見いだせていない」。林は模索する。「どうやったら、もっ
と多くの人の声を採り入れることができるのか。少し距離を取り、時間をかけて考えてみたい」
「公民運動」に林が初めて参加したのは、2008年11月の「野いちご運動」だった。その前の「野
ゆり学生運動」など、台湾の大規模な運動には植物の名前がつけられることが多い。
この年の5月、馬英九(マーインチウ)が総統に就き、国民党政権が戻ってきた。馬は悪化して
いた中台関係の改善に乗りだし、11月3日には早くも中国の対台湾窓口、海峡両岸関係協会長の陳
雲林が訪台した。
1949年の中台分断以来、最高位の中国要人の訪問に、台湾では連日激しい抗議活動が起きた。
「野いちご」の幕開けだ。連日数百人のデモ隊と警察が衝突、多数のけが人が出た。「87年に解除
された戒厳令が再び敷かれたかのようだった」。林はそう振り返る。
台湾では2000年に民進党への政権交代が実現。民主化を達成したとの思いで、社会運動は下火に
なった。だが、国民党政権の復権で揺り戻しへの危機感が生まれた。
「野いちご」は台湾各地の大学に広がった。台南にある成功大学の学生だった林も、8日から大
学の校門前で座り込みを始めた。「中台の統合が一気に進むのでは」との不安も後押しした。多い
ときで50〜60人が座り込んだ。
だが、高い人気を誇った馬が総統選圧勝の勢いを保っていた時期だ。運動は結果を出せずに収
束。それでもこれをきっかけに学内で学生運動団体を立ち上げるなど、林にとって大きな転機に
なった。
林ら占拠の中心となった学生の多くが「野いちご」にかかわった。運動家が目覚めたのが「野い
ちご」だとすれば、市民が立ち上がるきっかけは、若い兵士の死をきっかけに台湾を揺るがした一
昨年の事件だった。
=敬称略(文と写真・鵜飼啓)