が制作した日本人の胸像は、後藤新平(ごとう・しんぺい)、新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)、
浜野弥四郎(はまの・よしろう)、鳥居信平(とりい・のぶへい)、八田與一(はった・よい
ち)、羽鳥又男(はとり・またお)、新井耕吉郎(あらい・こうきちろう)、磯永吉(いそ・えい
きち)、末永仁(すえなが・めぐむ)など9人に及ぶ。
許文龍氏は、日月譚(じつげつたん)に発電所を設けた台湾電力の松木幹一郎(まつき・かんい
ちろう)の胸像制作にも寄与している。
その他にも、日本統治時代に総督をつとめた第7代の明石元二郎(あかし・もとじろう)や第18
代の長谷川清(はせがわ・きよし)、台中に白冷圳という農業用水路を造った磯田謙雄(いそ
だ・のりお)、台湾鉄道史に名を刻む速水和彦(はやみ・かずひこ)、獅頭山勧化堂に祀られる廣
枝音右衛門(ひろえだ・おとうえもん)、義愛公こと森川清治郎(もりかわ・せいじろう)、宜蘭
に郡守徳政碑が建つ西郷菊次郎(さいごう・きくじろう)、教育関係では楫取道明(かとり・みち
あき)など芝山巌事件で非命に斃れた六士先生もいる。思いつくまま挙げても20人ほどになる。
今回、本誌で紹介したいのは、今でも町ぐるみで「大甲の聖人」と慕う教育者の志賀哲太郎(し
が・てつたろう)だ。
志賀哲太郎は、慶応元年(1865年)8月28日、熊本県上益城郡(かみましきぐん)益城町(まし
きまち)に生まれ、大正13年(1924年)12月29日に現在の台中市大甲区において亡くなっている。
自決だった。
最近になって、熊本市や益城町に住む志賀のご遺族や本会会員などの間で、志賀が教員をつとめ
た台中市大甲区内に立派なお墓や記念碑が建立されていることに関心が深まり、昨年(2015年)9
月には、益城町も関わって「志賀哲太郎先生生誕150年記念顕彰会準備委員会」が発足、熊本歴史
学研究会会長の松野國策氏が委員長に、白濱裕・元県立大津高校校長が副委員長に就任している。
今年2月には、志賀のご遺族の澤田寛旨(つだ・ひろし)氏を団長に有志7名が事績調査を兼ねて
台中市大甲区を訪問するなど、志賀哲太郎を顕彰する機運が高まってきているそうだ。
下記に紹介するのは、その訪台記だ。志賀哲太郎が大甲では「格別の扱いを受けていることを目
の当たりにし、驚きと感謝の念」を抱くようになる様子がありありと伝わってくる。
来る5月28日には、益城町において、志賀哲太郎先生顕彰会実行委員会の主催により「志賀哲太
郎先生生誕150年記念顕彰会」(共催:益城町、益城町教育委員会)を開催するという。詳細が分
かり次第、本誌でもご紹介したい。
台湾で「嘉南大圳の父」として八田與一が敬愛されていることを知った地元の石川県金沢市
は、いまや住民の誰もが八田與一の名を知るようになっている。台湾との交流も頻繁だ。
昨年10月には、熊本空港と台湾・高雄空港との間に定期便が就航し、台湾がグッと熊本に近づい
た。益城町も、志賀哲太郎を縁に台湾との交流が密になることを切に願いたい。
台湾大甲訪問記
志賀哲太郎先生顕彰会実行委員会事務局 折田 豊生
先般2月26日(金)から29日(月)までの4日間、台湾・台中市大甲区を訪問した。台湾で「大甲
の聖人」として敬愛されている志賀哲太郎の墓参のため、志賀の出身地熊本の有志による志賀哲太
郎先生顕彰会のメンバー7人で、生誕150年を機に、事績調査を兼ねて訪台したものである。
志賀哲太郎は、熊本市の東方、益城町津森の出身で、明治29年に台湾に渡り、26年間に亘って大
甲公学校の教師として尽力し、台湾の発展に寄与した幾多の人材を育て上げた伝説的人物である。
日本が統治していた当時の台湾にあって、少しも現地の人々を差別することなく、同じ人間とし
て尊び、自らは禅僧のような謹厳さを以て人々に接したと言われている。志賀が説いた教育の3つ
の柱は、「慈悲」「倹約」「謙虚」であるが、志賀は、教育に対する理解がほとんどなかった台湾
において、子供たちの人格育成に重きを置き、実践的教育を通して、この街の文化的基礎を形作っ
た神様のような存在として語り継がれているようだった。
大甲区は人口約8万人の街で、台中市の中心街から北の方に約30キロ離れたところにある。大甲
区公所(区役所)に着くと、10余人の職員の皆さんが出迎えて下さり、大きな応接室に通されて盛
大な歓迎セレモニーが行われた。
訪問団の澤田寛旨(さわだ・ひろし)団長が訪問の趣旨を述べ、大甲区公所の劉來旺区長が歓迎
の挨拶をされた後、配布された数種類の啓発パンフレットや図書の説明が行われ、「大甲的聖人
志賀哲太郎」というアニメーションビデオの放映もしていただいた。
話には聞いていたものの、熊本ではほとんど無名に近い人が台湾で格別の扱いを受けていること
を目の当たりにし、驚きと感謝の念を以てそれらの説明を伺った次第だった。澤田団長が志賀哲太
郎の遺族(妹の孫)であることをお伝えすると、一様に感嘆の声が上がった。
翌朝、再び大甲区公所を訪れ、東方の街外れに位置する鉄砧山(てっちんざん)に案内していた
だいた。
鉄砧山は台湾の英雄、鄭成功を祀(まつ)ってある標高300メートル余りの山で、その中腹に志
賀哲太郎の墓と顕彰碑があった。休日にも拘わらず、公所の皆さん10余人が公用車で同行して下さ
り、公所と訪問団合同の墓前祭が厳粛に執り行われた。
訪問団が持参した益城町潮井水源の湧水をお供えし、澤田団長が祭文を奉読し、白濱裕(しらは
ま・ひろし)副団長が明治天皇御製を拝誦した後、大甲区公所で用意して下さった日本酒と花を捧
げ、全員で焼香した。
志賀哲太郎の墓の傍に、かつて女中として仕えた島村ソデ(熊本県河内町出身と言われている)
の墓があり、こちらでも同様に墓前祭が執り行われた。
墓前祭を終えた後、志賀哲太郎ゆかりの地(文昌祠、大甲国民小学、鎮瀾宮、自裁の地・水源路
等)を順次案内して頂いた。
公所の皆さんの振る舞いには少しも義務的なところがなく、一つ一つの行いに心が籠っていて極
めて好ましい印象を受けた。
2日間の一連の交流を通じて、志賀哲太郎に対する大甲区の人々の思いの深さを知らされるとと
もに、頂いた数々の資料や関連施設の展示からも、志賀が当地で果たした業績の大きさを思わされ
た。出身地熊本ではほとんど無名に近いのだが、この距離感をぜひとも縮めたいものである。
旅行の最終日には台北市郊外の芝山巌(しざんがん)を訪れた。ここは、台湾統治開始直後最初
に教育事業に携わり、非命に斃れた6人の日本人教師(六氏先生)の墓があり、その後塵を拝して
台湾の教育に命を捧げた多くの日本人教師が祀られている。台湾教育の象徴的聖地であるその山の
石碑にも志賀哲太郎の名前が彫り込まれており、志賀の業績の大きさがあらためて思われ、深い感
慨を抱きながら山を下ったことだった。