【nippon.com:2020年10月24日】https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00967/
新型コロナウイルスが人類に襲いかかった最も新しい感染症だとすれば、マラリアは人類にとって最古の感染症の一つであり、今日もアフリカを中心に毎年2億人以上が感染している。台湾でもマラリア原虫を媒介する蚊であるハマダラカが長く外来者の移入を阻んできた。伝染病が蔓延(まんえん)していることから「瘴癘(しょうれい)の島」と恐れられた台湾。その最大の脅威であったマラリアを克服できた背後には、日本や台湾の医療関係者が払った献身的な努力があったことを、コロナ時代だからこそ、われわれは思い出すべきである。
◆現在も毎年2億人以上が感染しているマラリア
人類の歩みを通して、感染症との闘いは、戦争と同様に切っても切れないものだった。数ある感染症のなかでも極めて長い歴史を有するのがマラリアで、約3000万年前の琥珀に閉じこめられていた蚊からも、病原体であるマラリア原虫が発見されている。マラリア原虫はハマダラカ(Anopheles)という蚊の一部の種のメスを介して人の血液中に寄生する。罹患(りかん)すると高熱、悪寒、頭痛、痙攣(けいれん)等を発し、重症化すると意識障害を起こし、死に至る。三日熱、四日熱、卵形および熱帯熱に分類され、とりわけ強力なのが熱帯熱マラリアで、何も処置しなければほぼ確実に死に、最善の治療をしたとしても20%は死亡する。
今日でもアフリカをはじめ、何億もの人々がマラリアの脅威にさらされている。世界保健機関(WHO)の報告書によれば、2018年には世界で2億2800万もの人が感染し、40万5000人が死亡した。その9割強がアフリカだ。
台湾在住の日本人である筆者は、幸運にもマラリアとほとんど関わることなく生きてきた。今年(2020年)トランプ大統領がCOVID-19の予防に抗マラリア薬が有効と主張したことを伝えるニュースで、久しぶりにその名を耳にした。台南の医師・韓良誠氏にマラリアについて何かご存じでないか聞きに行くと、こんな話をしてくださった。
「戦争中ぼくは小学生で、当時日本人の先生がよく“喧嘩はやむを得ない場合にはしてもいいが、相手の腹だけは絶対に殴ってはいけない”と言われていました。理由は、脾臓(ひぞう)が壊れるからだと」
脾臓は古くなった赤血球を処理する器官だ。マラリア原虫は赤血球を大量に破壊するので、脾臓の負担が大きくなる。それで戦前の学校では生徒たちにそのように言い聞かせていたのだろう。
◆外来者の侵入を阻む「戦闘機」ハマダラカ
台湾は「美麗島」という美称をもつ。16世紀中葉、日本に鉄砲とキリスト教をもたらしたポルトガル人たちは、同じころ海上から急峻な山々がそびえるこの島を眺めて「Ilha Formosa!(美しい島)」と感嘆し、以来それがヨーロッパ人の間でこの島の通名になったという。
一方で、清朝の官吏や軍人たちはこの島を「瘴癘(しょうれい)」島と言い表している。「瘴」は山川にたちこめる毒気、「癘」は流行り病という意味だ。駐インド英国人医師のロナルド・ロスによりハマダラカがマラリアの感染媒体だと突きとめられたのは1897年で、それ以前は毒気を吸うことが原因だと、世界各地で一般に考えられていた。
免疫を持たない外部からの侵入者に対し、ハマダラカはさながら戦闘機のごとく襲いかかり、マラリア原虫という砲弾によって「撃退」した。1874年(明治7年)の日本軍による台湾出兵はその顕著な例だ。3600人中、戦死者はわずかに12人だったのに対し、実に561人が病死し、撤収を余儀なくされた。
数千年来、マラリアはこのようにアフリカとアジアの熱帯地域から外来者の侵入を阻んできた。マラリアがなかったら、世界史はまったく違うものになっていただろう。
◆台湾マラリア研究の先駆者、木下嘉七郎と羽鳥重郎
ロスの発見に先立つ1895年以降、台湾総督府は、五里霧中の状況下でこの謎の敵に立ち向った。翌96年から3度にわたり台湾でペストが流行したこともあり、マラリア対策にまではなかなか手が回らなかったが、調査・研究は着々と進められていた。
木下嘉七郎と羽鳥重郎は、日本統治初期における代表的な研究者だ。木下は長崎第五高等学校医学部卒業後、台北近郊で蚊の生態を調査し、1901年《東京醫學會雜誌》第16号に「肉叉蚊第一回報告」として発表した。その後ドイツ留学を経て帰台。マラリアが流行していた甲仙埔(現在はタロイモの名産地として知られる高雄市甲仙區)の居住者約3500人に一律で治療薬のキニーネを服用させ、良好な効果を挙げた。将来を嘱望されたが、山岳地帯で病に倒れ、1908年に36歳の若さで亡くなってしまう。木下が発表した約20本の論文は、台湾におけるマラリア研究の礎となっている。
群馬県出身の羽鳥重郎医師も精力的にフィールドワークを行い、いくつものハマダラカの新種を発見した。また台湾の風土病の一つをツツガムシというダニによって引き起こされる「台湾ツツガムシ病」であると解明するなど、台湾の医学と公衆衛生に多大な貢献をなした。退職後しばらく東部の花蓮で暮らし、その旧居は現在修復されて「秋朝??館」という木のテイストあふれるカフェになっている。
◆ハワイから船に乗って来た魚
マラリア対策は「対原虫方法」と「対人方法」に大別される。
「対原虫方法」は上下水道の整備、沼沢地の埋め立て、叢林の伐採、殺虫剤散布等によりハマダラカを減らしていく方法だ。ただし地域住民に無償での作業を強いたため反発が大きく、効果も認めづらかった。
1911年のカダヤシ移入も、対原虫法の一例だ。台湾総督府付の農業技術者だった井街顕は、アメリカ視察の帰途、ハワイにてメダカによく似た小型淡水魚を600匹手に入れて水温の上昇を防ぐために布でくるんだ氷を水槽の上に置くなど、細心の注意を払って台湾へ持ち帰った。ボウフラを好んで食べる習性からカダヤシ(蚊絶やし)と呼ばれたその魚は、途中50匹にまで減ってしまったが、無事繁殖に成功し、万感の期待をこめて台湾各地の淡水域に放流された。その後、ハマダラカの減少にどれほど寄与したのかは未知のままだが、今も田舎の池などでカダヤシの子孫の姿を見ることができる。日本へも1916年に台湾から移植された。
◆成果を上げたが、戦争で元の木阿弥に
「対人方法」については、羽鳥重郎が細菌学者ロベルト・コッホのニューギニアにおける成功例を参考に提唱したものが採用され、1910年以降主流となった。マラリアの多い土地および総督府が重視する土地を「防遏(ぼうあつ)地域」に指定し、各地域に防遏所を設け、住民に月1回血液検査を受けさせ、原虫陽性者に原虫の繁殖サイクルを上回る期間キニーネを投与することで、撲滅をめざすものだ。検査と投薬は無料で行われ、目に見えて効果があったため民衆に広く受け入れられた。防遏地域は年々増え、終戦前の1944年には197カ所が指定されていた。
今の世の中でも、COVID-19感染拡大防止のためにPCR検査を大規模に実施すべきだとする意見と、そうではないという意見とがせめぎあっている。時代背景も感染症のタイプも異なるが、当時のコッホや木下、羽鳥らによる理論と実践は、現在のPCR検査をめぐる議論にも何らかの知見を与えてくれる可能性があるだろう。
北里研究所出身で1924年より台湾でマラリア研究にあたった森下薫が作成した「人口/マラリア死亡者/一万人あたりの死亡者」の統計によれば、1906年は299万/10582/35.4だったのが、1920年には346万/7760/22.4になり、1930年には427万/2844/6.7となっている。この間人口が140%増えた一方、死亡者は4分の1にまで減少しており、確かに成功を収めていたといえる。
しかし第二次世界大戦の勃発が、長年積み上げてきたものをぶち壊した。ままずキニーネはその原料となるキナが高雄六龜地区などで大量栽培されていたが、南方諸地域に展開する日本軍に送られたため台湾民衆に行き渡らなくなり、更に免疫を持たない都市部の人々が地方に疎開したことで感染は拡大の一途を辿った。日本の敗戦後に政権を握った国民党も適切な処置を講じることができず、戦後初期には人口600万人中100万人以上がマラリアに罹患していたという報告もある。
◆戦後防疫活動の源流となった潮州マラリア研究所
屏東県潮州にかつて存在した「瘧疾(マラリア)研究所」は、戦後台湾の防疫活動の源流にあたる場所だ。日本統治期のマラリア研究施設を拡充し、ロックフェラー財団の援助下で大量の研究者を雇用した。その中には戦後も台湾に留まり教育に努めた日本人医師の教え子も少なくなかった。マラリアを撲滅に至らしめる決定打になったのは、DDTという殺虫剤だ。環境への毒性が批判される前は「魔法の薬」と呼ばれ、日本でもシラミ対策等に用いられた。台湾では「噴射隊」というチームが組織され、DDTが入った缶を荷台に載せ、自転車で村から村へと移動し、住居の壁や家具に噴射して回り、抜群の成果を上げた。そして1965年のWHOによるマラリア根絶宣言へと至る。
なお大量のDDTや噴射器を提供したのは、アメリカの資金援助の下に組織された農復会(中国農村復興聯合委員会)という機関で、故李登輝元総統や筆者が以前取り上げた陳俊郎氏もここに勤務していたことがある。
◆戦争こそが最大の敵
台湾の抗マラリア史を調べると、研究や治療にあたった人々の勇気と労苦に感嘆させられる。原虫のはびこる山野に分け入り蚊を採集した学者たち。その為に命を落とした木下嘉七郎。辺境の地で検査・治療にあたった医療従事者、並びに民衆の衛生指導にあたった警察官の存在も忘れてはいけない。マラリア対策に貢献があった日本人を、後世の台湾人も詳しく記録してくれた。特に朱耀沂の著作『臺灣昆蟲學史話1684-1945』(臺大出版中心)や台湾史研究所副研究員・顧雅文の論文には、日本では忘れ去られているに等しいマラリア研究の先人の足跡が細かく記されており、台湾とマラリアの戦いを知る貴重な資料となっている。
そうした人々の努力により日本統治初期から50年近く積み上げてきたものを、台無しにしたのは第二次世界大戦であった。戦争を頂点とする社会の動乱こそが、感染症防止にあたる人々にとっての最大の敵といえる。まずなによりも平和、そして社会全体の衛生環境および生活水準の向上。これらが前提条件となってはじめて、感染症を克服する道が開かれる。
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大洞 敦史(だいどう・あつし)1984年、東京都調布市生まれ。中学1年生の1学期より不登校。大検、放送大学を経て、明治大学大学院理工学研究科新領域創造専攻ディジタルコンテンツ系修了。研究テーマは1950年代紡績工場の作文サークル運動。在学中、台北で映像制作ワークショップに参加したことから台湾にとりつかれる。日本語学校でのボランティアやカラオケ等を通じて中国語を学び、2012年にワーキングホリデーで台南へ移住。連日バイクを走らせて日本語の家庭教師や人との交流、地域研究、文化体験に明け暮れる。2013年より台南の塾、早稲田日本語センターに勤務。その後、日本蕎麦屋「洞蕎麥」を5年間経営。執筆、翻訳・通訳、三線演奏等も行う。主な著書に『台湾環島 南風のスケッチ』『遊?台南』。
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